雑食系 国語教師の【Pillow Book】

春はあけぼの。国語とか教育とか、音楽とかメディアとか、旅とか社会とか人間とか。日本。

【楽曲紹介】Official髭男dism×"教育"(第1弾)

今回と次回は完全なる自己満足記事です笑。いやでも読んでほしい!

もう流行りすぎているので今更語る必要もないと思うのですが、どうしてもこの感動・感激をお伝えしたい!という思いから書いてみます。

テーマは、"Official髭男dismの魅力"!

もうありがちすぎてすみません。でもどうか読んでみてください泣。

 

髭男と言いますと、有名なのは”映画版 コンフィデマンスJP”の主題歌となりました『Pretender』、それと佐藤健に萌えまくると噂のドラマ”恋はつづくよどこまでも”の主題歌となった『I LOVE...』あたりが2大巨頭でしょうかね。もちろんこの2曲は個人的ランクTop5には確実に入るほど大好きですし、名曲であるのも間違いない!

ただまぁ今回はですね、その有名な2曲をご紹介してもしょうがないので、別の視点から書いてみたいと思います。

 

それは、「髭男×教育」です。

髭男の曲には、ぜひ学生や教育関係の方に聞いてほしい!という曲がいくつかあります。それをご紹介したいと思います。

今紹介したいのは5曲あるのですが、一気に書くとおなかイッパイになっちゃうと思うので、今回は2曲だけ紹介します。

 

とその前に、僕個人の考える「歌詞の魅力」についての意見を述べてみます(これは髭男に限らないものです)。ちょっと本業の、読解分析を…。

ストーリーテリングを主とするものとして真っ先に思い当たるのは物語・小説です。小説といっても実に様々なジャンルがあるので一概には言えませんが、小説の面白さや魅力は、やはり「非日常体験」だと思うんですね。自分では経験することのできない世界、自分とは異なる視点や立場の体験などに、まるで自分事のように没入できるのが小説の面白さなのではないかと思うわけです。もちろんそこから色々なことを考えさせられて、自身の考え方や、ひいては行動にまで影響を及ぼすものもあると思います。それでもおそらく「あーこれ自分の経験と全く一緒や」っていう小説は、残念ながらそんなに面白くないのではないかと思います。ドラマや映画も同じ感じでしょうか。

一方、楽曲というのは、それなりに聞く人との接点がないと、受容されるのがなかなか難しいのではないかと思います(歌詞重視じゃない人はあまり気にしないかもしれないけど)。売れる曲、流行る曲というのは、どこかに「うんうん、わかるわかる」という”一般化されたポイント”を持っていると思うんです。

こうである理由はおそらく単純で、まずは小説等に比べて当然伝えられる文字数が圧倒的に少ないことでしょう。短い曲の中で突拍子もないストーリーを語ろうとすれば、それは直で意味が分からない歌詞、何を言いたいのかわからないモノになりかねません。

あとは、小説やドラマ・映画に比べて、何度もリピートされうるという特徴によると思います。本当に売れる楽曲というのはおそらく、1度聞いて度肝を抜かれるものというより、「なんかいいけど、もう一回聞いてみようか」と思って聞いて、気づいたらリピートしてアリジゴクのようにハマってしまう曲だと思うんですね。このサブスク・ストリーミング時代においてはなおさらです。いわゆる「スルメ曲」というのが、息の長い流行歌になるのだと思います(もちろん例外はあり)。

ただ、この「共感を生む歌詞」というのは、ややもすると「ありきたりでつまらないモノ」になる恐れがあります。「言いたいことは分かるけど、なんか聞いたことある内容だなぁ」「あぁこういうフレーズあるあるだよねー」っていう曲、結構ありませんか?だから、この塩梅が結構難しいんだと思います(自分には書けない)。

 

で、まぁここから髭男の話に戻るんですが、その塩梅が髭男は絶妙だな、って僕は思うんですよね。つまり、あるあるとユニークのバランスです。

ほとんどの歌詞をVocalの藤原(フジ"ハラ")さんが手がけているのですが、まず、言葉選びがとても秀逸。他の作詞家には見られない、かなり独特なワードセンスを持っていらっしゃると思います。それでいて、何回か聞いて歌詞に注目していくと「あーそういうことか!わかるわかる!」ってなるんですよね。

今回は解説しませんけど、「犬かキャットかで死ぬまで喧嘩しよう!」とか「115万キロのフィルム」って聞いて、結婚の歌だと思いますか?笑。しかもどっちも聞けばもううーんって唸ってしまうくらい共感できるし、メッチャいい歌詞(結婚してないけど)。

あーダメだ、言いたいことが止まらない。いやしかし、もうとっくに飽きてきたと思うので笑、メロディや編曲、バンド自体の魅力についてはまた今度…。

 

というわけでようやく本題です!

ぜひ中高大学生、そして教育関係の方、あるいはお子さんをお持ちの方!に聞いてほしい髭男の曲を紹介します!!

 

 

■ 宿命

2019年7月に3rd Singleとして発売された楽曲です。メジャーシングルですので知っている方も多くいるでしょうが、ここはあえて選びます!

『Pretender』の熱気冷めやらぬという中で、若干埋もれた感もなくはないですが、あの曲のパワー・インパクトは間違いなくデカいです。

というか、『ノーダウト』⇒『Pretender』という(当時の)にわかファンからすると、『宿命』への”様変わり感”は圧倒的インパクトでしたね。このバンドの幅の広さはいったいどこから来るんだ?!という衝撃を受けました。

この曲は、”熱闘甲子園”のテーマソングでしたが、前面に管楽器音が打ち出された、ブラスバンド風のイントロで始まるのは、甲子園のスタンドで応援する吹奏楽部をイメージしているとか(Vocalの藤原さんと、Baseの楢崎さんは吹部出身!応援経験もあるのでしょうか?)

そういうこともあってこの曲は完全に「球児」にスポットライトが当たっている、というかむしろ球児が一人称の曲ですが、その心情描写や状況描写が見事です。で、それが具体的だからこそ、球児でない人でもその場面に自分を投影することができるのだと思います。圧倒的な具体性はむしろ一般化されやすい(誰にでも理解されやすい)ので、自分の具体に落とし込むことができるということです。

歌詞の一番では、爽やかな光景と、ポジティブな心情が描き出されています。一方で2番では歌詞のムードが一変します。「『大丈夫』や『頑張れ』って歌詞に苛立ってしまったそんな夜もあった」と、努力しているのにうまくいかないといったネガティブな感情をうまく描いていると思います。

そして僕が好きなフレーズは、最後のサビに向かう前のメロの部分の歌詞。

緊張から不安が芽生えて

根を張るみたいに僕らを支配する

そんなものに負けてたまるかと

今宿命ってやつを燃やして 暴れだす

球児と言わずとも、「一点集中」で何かに立ち向かわなければならないシーンなら多くの人に経験があるはず。

「ここを逃したら、後がない」という緊張感は、「失敗したらどうしよう」という不安感に直結します。でもそれまでの厳しくつらい日々を乗り越えたからこその「負けてたまるか」という反骨心と「暴れだす」という強烈な意志。その後の展開は、いかにも試合が開始したかのようで、本当にドラマチックです。

「宿命」というのは元々「生まれ持った運命」という意味ですが、この場合、「自分がこの場に立っているのは運命であり、使命なんだ」ということだと勝手に思っています。そのたどり着いた一瞬の「宿命」にすべてを掛ける気持ちは、自分でいうと大学入試の時にとても似ていて、聞くとその時の気持ちが蘇ります。

ラスサビからの流れでアウトロでブラスがもう一度盛り上がった後、すべての学期が消え、藤原さんの「ただ」という声が響くところを始めて聞いたときは鳥肌ものでした。

コロナの影響で、多くの部活動の大会が中止となっており、高校野球も例外ではないかもしれません。仮に高3生、中3生などであれば、これが最後なのにと、やり場のない悔しさや悲しみを感じるでしょう。そこから簡単に気持ちを切り替えるのは難しいかもしれませんが、でもそこで、それこそ「負けてたまるか」と踏ん張って、また別の舞台かもしれないけど、自分の「宿命」を燃やせる場所を目指して、新たなスタートを切ってほしいと願うばかりです。

 

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■ 未完成なままで

2016年発売の『What's going on?』というインディーズ版収録の作品。こちらは『宿命』とは違って、知らない人が大半ではないでしょうか。

歌詞の視点は「僕(一人称)」で、主人公はおそらく進路に悩む高校生かと思われます。自分のやりたいこと、進みたい道なんてまだ全然わからないのに、「理系にするの?文系にするの?大学?専門?」という決断をある時点で下さなければならないという悩みを持つ(持った)人は少なくないと思います。

僕の胸に刺さった歌詞はこちらです。

「天才」なんて柄じゃないし やりたい事も別にないし

「特別」でも「普通」でもない そんな自分を探している

特に2行目ですね。「特別」な存在にはなれないしなりたくはない(目立つのは怖いし)。でもだからと言って、埋没する「普通」な存在にもなりたくない、という思いは自分も経験があるし(今もそうかも…)、すごく共感します。

全体の歌詞はその「進路選択」の場面に焦点が当てられていて、「うん、そうだよなそうだよな」って感じなのですが、割と僕はここにもっと根深いものを見ていて…。

というものやはり日本の教育って、不可逆的(戻れない)・不可変的(変えられない)で、かつ立ち止まることのできないシステムになってしまっているんですよね。一度文系か理系かを決めたらそれを変えるのは本当に大変。どこかで「これはちょっと違う…」と思っても、その大変さと天秤に測ると、続けることを選択せざるを得ない。それに、大学もストレートで卒業するのを良しとする風潮はまだある(積極的な留年とかは全然いいと思うのだが)。それに、この歌詞は、大学生の就活にも当てはまるんじゃないかなと思います。少しずつ変わりつつあるとはいえ、まだ終身雇用神話が完全に消えたとは言えない世の中で、「自分はどうしたいか」とは無関係に安定を選んでいる人もいるのではと思います。

人生100年と言われている時代なのだから、もう少しじっくりゆっくり、余裕をもって自分の人生を決められる社会システムになればいいな、とこの歌を聞いてふと思ったのでした。

(こちらはOfficailな音源が上がっていなかったので割愛します)

 

というわけで、今回は『宿命』と『未完成なままで』の2曲をご紹介しました。

正直言って、次回の3曲の方が、僕的には全く以て良い意味で強烈なんですよね笑。だから今日は「序章編」ということで、次回の本編にご期待頂ければと思います(もうおなかいっぱいって思わないでネ…)。

 

ぜひ、今日紹介した曲、またそれ以外の髭男の曲も聞いてみてください!

流行りには乗りたくないという食わず嫌い系の人こそ、ぜひ!!

 

 

【随想】アフターコロナの世界を想う(本章)

すみません…前回の書いたの4/26でした…。

【言い訳1】

意外とやりたいこと・やることが出てきてなかなかに忙しい今日この頃。

もちろん外出自粛はきちんと継続してます。前に「散歩」以外の用事で家を出たのはいつだろう…というくらい遵守しております。案外、というか、全然レベルでストレスたまらんので、生粋のインドア派であることがわかりました。Q.E.D....

まぁこれは一人っ子のなせる業かもしれないですね。かつ両親共働きだったので、一人遊びの術はもう心得ております。とはいえ一人で大丈夫なわけでもないので、適度に人と連絡は取っていますが。

あぁ、また話ズレた…。そんなこんなで、最近は資格の勉強と教材作成とYouTube鑑賞(とある教育系YouTuberにハマった…)で結構忙しくしております。何をしているのかは、もう少し引っ張ろうかな…笑。

【言い訳2】

当初はね、だいぶ緩めに始めるつもりだったんですよ。でも、もうこれは生来の性と言いますか、書き始めると止まらなくなるというか、結局ウン時間経ってるってことがほとんどで、「よし書こう!」って思わないと書けなくてネ…自分で自分の首を絞めるタイプですよ、分かります、分かりますが…。

いや、僕は間違いなく物書きにはなれないですねww飽きっぽいし、仕事だとしたら効率が悪すぎるし、書くのは嫌いではないけど、たぶん向いていない、ということがよくわかります笑。

まぁでもですね、知らんうちに10本以上は投稿していたし、どこのどなたか存じ上げませんが、こんなに更新していなくても訪れてくださる方もいるので、思うままに書いていきたいなとは思ってる所存です。

 

で、今回は前回書き始めた『アフターコロナの世界を想う』の本章です。

前回を読んでいなくてもたぶん伝わるかと思いますが、まだの方はよろしければ下記リンクからどうぞ!

 

mrmr130.hatenablog.com

 

…なんですが、もう初老に突入したのか、前回のものを自分で読み返してみても、何を書こうと思ったのかほぼ忘れてしまったのと、世の状況もかなり変わりつつある(変わってることを願う)ので、まぁ同じタイトルではありますが、今思うことを書きたいと思います。

 

コロナは収束している…という希望的観測は持っていたいなと思うのですが、新規感染者数が減っているとはいえ、とりあえず首都圏は5月末までは緊急事態宣言は延長されそうです。僕の住んでいる神奈川は幸いにも医療体制には少し余裕があるようですが、お隣東京さんがかなりひっ迫しているらしいので、「一心同体」の神奈川だけお先にーとはいかないと思われます。

それに、まぁ容易に想像できる未来として、コロナ以前の生活、というか(もっと大きい括りとして)以前の社会に戻ることは、残念ながらかなり非現実的だと思います。もし研究が進んで、ワクチンやら”対コロナ”治療薬ができれば戻れるかもしれないけれど、いつまた同じようなパンデミックが起きるかはわからないし、生活様式自体を改めていかねばならない、、、のかもしれません。

 

日本国内を見渡すだけでも、もうココカシコでかつての常識が覆された例はたくさんあります。例えば、前回書いたような「教育革命」。今までも批判はありましたが、もうこれまでのような一斉授業を学校の教室でやることは許されなくなるかもしれません(動画見りゃいいじゃんで済む)。学校の教員に求められる仕事の質も、変わらざるを得ない局面です。9月入学の話も出てきて、賛否両論ありますが、もし本当にそうなったら、もうその後は、我々の知らない文化を一から作っていくしかないのです。

「国際」や「グローバル」というのが近年、絶対不可欠な素養として求められてきました。しかし今回のようなことがあると、「国際」にしか軸足がないと、場合によっては厳しい状況に陥ることも明らかになってしまいました。これまで「就職人気ランキング」の常連だった航空系の会社も、今までにないほどの苦境に立たされています。また、旅行業、観光業などは「オリンピックだ!インバウンドだ!これからだぞ!」という状況下での大打撃です。本当に気の毒な状況だな、と思わざるを得ません。

業界別の話でなくとも、例えばこれまで「リモートワーク」というものに頑なだったような企業がやらざるを得なくなって始めた結果、社員が「案外ええやん」と味を占めてしまったのであれば、会社としても、元に戻すのは難しいと思います。考え方によっては、リモートワークが普及すれば、巨大なオフィスを構える必要もなくなるわけなので、テナント賃貸料とか光熱費といった固定費が大幅に削減される。今回のコロナで業績的にダメージを受けた会社は多いでしょうから、そうやって経費を削減する方向に舵を切る企業も出てくるかもしれません。そうなれば、男性が家にいる時間が長くなって、高度経済成長期から続いてきた日本的な家族の在り方にも変化が生じる、、、といった具合に、おそらく誰にでも少なからぬ影響は生じるのです。

 

今まで見たことのない世界で生きていく準備をしておかなくては。

 

それで、たぶんこれを読んでくれているのは大学生が中心かなと思うので、大学生を目当てに話をすると、この「外出自粛」という不可避な状況が、すごくシビアなところで、みなさんの将来を左右しかねないと、思っているのです。

もう散々言われていることだから、聞いていて耳も痛いという人もいるかもしれないですが、大事なことだから話しておきます。

これまでも、「もう人生100年時代だから、終身雇用なんて期待せず、とにかく柔軟に対応できる力を身につけておこう」と言われてはいましたが、まぁ結局のところは大企業は強くて、まだ多くの親、そして中高生は「いい大学に行って、適度にサークルに入って、バイトをやって、3年後半で就活して、卒業と同時に企業に就職」という未来図を描いていると思うし、大学生もそうでしょう。

しかし、今回の件で、その旧来型の考えもいよいよ時代錯誤になろうとしています。先ほど述べたように、どの職種であれば安定的であるかなんて、もうもはやわからないのです。医療従事者が不要になることはおそらくないと思いますが、あれほどタフな仕事を自分がやっていけるのかということとは別の話です。安定的と思われる職種であったって、かつての「教師」とこれからの「教師」がまるで変わりそうであるように、状況次第で求められる能力やすべき仕事が変わる可能性は十分にあります。そうなったときに、臨機応変に対応できる能力や技能と、それに対応できる精神的な柔軟性が必要なのは目に見えています。

 

これからはもしかすると「ダブルワーク」というのが主流になるかもしれません。ダブルワークと言ったって、必ずしも5:5の比率で働くわけではありません(たぶんそんなダブルワーカーいない)さらにいえば、ダブルを超えたマルチワーカーすらすでに現れています。

幻冬舎で編集者をしている箕輪厚介氏は、まさにマルチワーカーのパイオニアという印象です。彼は幻冬舎という一企業の会社員でありながら、企業内起業という形でクラウドファンディングと出版の融合を目指す株式会社の取締役であり、かつホリエモンの大学では客員教授をし、自身のオンラインサロンを主宰し、メディアでコメンテーターをし、そして歌手活動をし…ともう、なんか尋常ではありません笑。

別に万人が彼のようになるべきだとはまったくもって思いません、てか無理です!少なくとも僕は。しかし彼の生き方は、アフターコロナの社会に向けて、非常に重要なヒントとなりえるのではないかと思うのです。

つまり、一つのところ(会社とか)に両足をペタリとつけていると、やはりそれがグラグラっと揺らいだ時にあっという間に崩れてしまう可能性がある。だけど、片足は会社という比較的強固な基盤につけておきながらも、もう片方の足はまるでバスケのピボットをするかのように障害をかわしつつ、柔軟に動き続け、いつでも走り出せる準備をしておく。これがもしかすると、スタンダードな生き方、別の流行り言葉では「ニューノーマル」になるかもしれません。

 

とはいえ、実際働き始めると、「ピボット」の練習をするのはとても大変です。なんだかんだ言っても、多くの人は企業に就職することでしょう。そうすれば、しばらくの間はどうしても両足をペタッと会社にくっつけざるを得ない状況になると思います。新たなことを開拓していくのは、忙しい時には、時間的にも精神的にも大きな労力が必要です。

僕が今年長期研修という形を取ったのも、意識はしていませんでしたが、今言語化してみるとそういう意識があったからかもしれません。自分としては教員という軸足を変えるつもりはありませんが、それでももう片方の足で、何か自分なりの社会へのかかわり方を模索したかったのだと思います。自分の場合は、精神的な部分で常に「余裕」がないとダメなタイプなので、働きながら模索するというのは無理でした。できる人は強いと思いますが、そう多くはないと思います。

 

であれば、今の「家に居なければならない時間」というのは、もう片方の足の置き場をあれこれと模索できる機会なのではないかと思います。これほど周りに流されることなく、自分だけに集中できる時間というのは、少なくともこれまでにはなかったのではないかと思います。

この機会に、何か新しいことを1つでも始めてみましたか?できればそれは、自分の将来につながるもののであった方がいいと思います。将来につながるというのは、別に直結していなくてもいいです。でも、これまでの生活を漫然と継続しようとしていたり、これまでの生活の”下位互換”だけに終始してしまっているのは、とても勿体ないと思います。別にオンライン飲み会やっちゃだめ!とか全然言ってません。僕もやるし。でも1日中やるわけじゃないですよね(1日中やってるなら、それはちょっとヤメテ…笑)。やることがない、というのは、厳しいけれど「やることを見つけていないだけじゃない?」と思ってしまう。

 

できることは色々あります。

手軽なところでは、本を読むこと。娯楽的なものも少しはいいけれど、自分の興味関心に自信が持てない人こそ、手当たり次第に色んな本を読んでみてほしいですね。新書とかでもいいと思います。その中から、「あ、このジャンル面白い」って思えるものがあれば、それを深掘りできる本を読んでいくと良いのではないかと思います。

あとは、勉強系。資格試験や語学など。頑張れば数ヶ月の勉強で取れる資格もあります。資格であれば通信教育がとても充実しているし、語学であれば今はオンラインレッスンがとてもメジャーになりました。Cafetalkというサイトでは、英語以外の言語のレッスンを受けることも可能です。「お金がかかるからなぁ」と思う人がいると思うのですが、そこは(月並みな言い方だけど)自己投資だと思ってください。仮にそのレッスンに5万円かかったとして、それを将来に活かすことができたら、きっと5万円を回収するのなんてあっという間ですよね。この機会に、自分のお金の使い方というのにも焦点を当ててみるのもいいと思いますよ。

もう一つは、アウトプット・創作系。あまり詳しくないけど、最近YouTuberが増えてきている気がしますね。でもそれ自体は良いことだと僕は思っています。何か自分の考えを外にアウトプットし、そしてフィードバックがもらえたら(フィードバックがないというのもある種のフィードバック)それを自己修正していく、というのは、それだけでトレーニングでもあり、かつ自己成長のいい機会だと思います。何かを書くのが得意であるなら、ブログでもいいと思います。何か自分が本当に好きなモノ・コト・ヒトがいるならばそれについてとにかく自分の想いを書いていけば、そこから色々なことがつながっていくかもしれません。演奏する、曲を作る、歌う、踊る、小説を書く、詩を書く、絵を描く、作品を作る、何か続けていけそうなことならば、なんでもいいと思います。というか、続かなくても、とりあえずやってみて、自分が本当にそれを極めたいのかを見極めてみればよいと思います。「時間がない」が言い訳にできない、この機会に。

 

先ほど紹介した箕輪厚介氏の、頭おかしいようで、非常に強かなエピソードをご紹介して終わりにします。

彼は昨年、日本には普通走っていない”トゥクトゥク”を150万円も支払って買ったんだそうです。トゥクトゥクは主にタイなどの東南アジア地域で見られる、バイクの後ろに人が乗れる箱のついたオープン仕様の乗り物です。こんな感じ↓↓

f:id:ryom130:20200512235642j:plain         箕輪厚介氏のツイッターより(https://twitter.com/minowanowa/

で、それについて語っていたんですが、もちろん面白半分もあるようですが、完全なる興味本位だけではないそうです。というのも、150万円で買ったそうですが、この珍しさと狂気さ(笑)、加えて彼の知名度ということで、”トゥクトゥク”への広告掲載依頼があり、あっさりと150万円は回収できてしまったとのこと。そしてそれは、計算済みだった、というのがまた恐ろしいというか、賢いところだなと非常に思いました。

お金は、無駄なものに使えば「減る」けれど、有益なものに使えば文字通り「増える」ものなのだということを明確に知らされました。とさ。

 

結局6,000文字超えちゃったよ!気楽になんか書けませんwここまで読んでくれた人、本当にありがとう(ToT) これを読んだ人が、少しでも前向きに何かに取り組んでくれたら嬉しいな。

 

そういえば、Twitterを始めました!

始めました、っていうか、元々鍵垢だったんですが、やはりブログを書くほど時間は取れなくても、ふと思ったことを伝えたいときもあったので、オープンにして発信していければと思います。ちなみに過去ログは全消ししましたw

(いやぁ、読み返したらヤバイヤバイ…笑)

 

Twitter アカウント:@MrMR130(https://twitter.com/MrMR130

 

 

 

最後に、最近新たなことに挑戦してる生徒が出てきていて、とても嬉しいですね!せっかくなので、みんなの宣伝しちゃうよ★

(まぁ僕のブログで宣伝したところで、という感じではあるが…w)

イヤだったら消すから言ってね笑

 

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一人旅の経験や読んだ本の経験などを綴ってます。大学生になって自分とひたすらに向き合いながら、思ったこと・考えたことを自分の言葉で語っているのがとても良い!ご両親の血は争えませんね^^

 

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自分の好きなこと(スポーツ×書くこと)を本当に体現しているなって思います。時々純な大学生の意見を垣間見れるのが面白い。それでさらに言えば、毎日更新してるのはもう純粋に尊敬!!

 

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最近YouTubeデビューし、毎日「起業」に関する動画を上げている彼女。好きとは言っても動画編集には労力がかかると思うので、毎日新作を出しててホントにすごい!!自分のモヤモヤした気持ちを、プラスの力に変えられるのは素晴らしいですね。こちらもご両親の血がすごい!笑

 

ぜひ、ご覧ください!それでは~。

 

【随想】アフターコロナの世界を想う(序章)

前回の"衝撃(?)"ブログから早3週間が立ちました。

色々とご反響、応援の言葉などを頂き、ありがとうございました。

mrmr130.hatenablog.com

 

ずっと家にいるためなかなかアップデートされる情報がコロナの話くらいしかなく、久しぶりの投稿となってしまいました(近況報告はまた今度)。

 

緊急事態宣言の発出からも約3週間が経ちます。しかし、東京都の新規感染者数は4/25日時点で継続して100人を超えていま(本日4/26は72人と、100人を久しぶりに割ったようですが)。一時期の200人に比べれば減ったものの、いまだ「収束に向かっている」とは言い切れない状態です。経済対策も「朝令暮改」と揶揄されているし、一律10万円の給付も、果たして全員に届くのはいつになるのでしょうか。

 

おそらく、一部の業種を除き、ほぼ全ての職業・業種で混乱が生じていることと思います。これまでの常識というのが一切通用しない世界になったところもあるでしょう。

教育業界も例外ではありません。2月末に全国一斉休校の要請が流れて以来、多くの都道府県で休校措置がとられており、生徒が学校に通っていない期間がおよそ2か月となります。通常の夏休みの日数を超えてしまいました。

そんな中でも「学びを止めるな」ということで、多くの先生が、今生徒に対してすべてきこと、できることを考えながら、日々対策が練られ実行されています。

こういう時に教員は、「授業の意義」とは何かという問いを真正面に突き付けられます。普通に学校が開かれている間は、「どういう授業をしようか」と日々の授業については考えるものの、タスクに追われる忙しさあり、「授業はどうあるべきか」というのをじっくり考える機会はなかなか持てません(常日頃から意識したいとは思っているのですが)。それに対し今は、忙しいのは変わらないでしょうが、”通常の授業ができない”という障害によって、授業のあり方を考えざるを得ない状態になっていると言えます。

 

具体的に少し話してみます。

通常の授業は大きく分けると3つに分けられます。

①座学-知識教授・解説型授業(一斉授業の形態が多め)

②座学-応用・思考型授業(グループワークなど、協働学習が含まれる)

③実技系授業(体育や芸術系・技術家庭など)

(③に関しては、専門でないというのと、なかなか遠隔授業というのが自分自身イメージができないので割愛します。)

 

①と②を分けましたが、必ずしもはっきりと「これは①、これは②」と分けられるわけでもありません。多くの授業では、バランスの差こそあれ、①と②をまぜて行われているからです(「①だけ」という授業は依然として多くありますが、少なくとも「②だけ」いう授業はまだ少ないのではないかと思います)

対面式の授業であれば、そのあたりをうまく織り交ぜながらやることが可能です。始めの10分で新出の知識を説明し、その後グループで応用させながら考えて共有、そしてさらに発展的な知識を説明…といった具合に。

しかし、オンライン(ライブ)授業においては、実はそれが現実的に難しいのです。以下のような理由が考えられます。

 

a)生徒の空気を対面授業より感じづらい

教員は事前に授業の準備・計画はしますが、授業は”生きているもの”なので、やはり生徒の顔や様子を見たり、空気を読んだりしながら、教師は「次に出すカード」を瞬時に選びながら出しています。ある知識内容をしていて、「これはあまりわかっている感じがしないな」と思えばもう少し時間を延長して補足説明をするし、一方で「これはこれ以上説明しなくていいな」と気づけば早めにグループワークなどに切り替えてしまうこともあります。そうすることで、できるだけ生徒が主体的に授業に向かえるようにしているのです(計画通りきっちりやる先生もいますが…)

しかし、オンラインでは、その”空気感”を読むのはとても難しいでしょう。さらには、全員の顔をすぐにみられるわけではないし、中には顔出ししたくないという子もいます。チャットなどで質問してくれる子は良いけれど、分からなくてもいいやというタイプの子はスルーしてしまい、教師もそれを把握することがより困難です。そうなると、「計画通りきっちり」やるしかなくなります。グループワークに関しても、話し合いが進んでいるかどうかを一挙にみられる対面授業に対して、オンラインでは1つ1つのグループを回るしかなく、総体的に見ることがより難しいのです。

 

b)生徒が必ずしも参加できるとは限らない

対面授業では基本的に、学校に来てくれさえすれば授業に参加することが可能です(良いことではないですが、教科書なければコピーを渡せるし、筆記用具がなければ貸せます)。しかし、オンラインとなるとそうはいきません。生徒の家庭環境も様々だからです。本校のような私立学校でも、家にパソコンなどの情報機器がなかったり、ネット環境がなかったりする家も少なからずあります。それにパソコンが家にあったとしても「1人1台」という家庭はそう多くないでしょうから、兄弟が多くいれば、パソコンの争奪戦にもなりかねません。あるいは、パソコンがリビングにしかないのだけれど、授業を受けて自分の意見を言ったりしているところを親や兄弟に見られたくないということも、思春期の子供には十分考えられます。オンライン授業に関しては対面に比べて、参加したくてもできない子や、そもそも参加したくないという子が増える傾向はあると考えられます。

 

c)一日中ディスプレイを見ることのデメリット

これは「②」に限らないことですが、そもそも、一日中パソコンやスマホの画面を見ることになれば、子供にも色々なデメリットが発生します。視力が低下する恐れがあったり、ブルーライトによる頭痛、また肩こりや腰痛の原因となったりもするでしょう。また、もしイヤホンで音声を聞いているとすれば、聴力にも悪影響を与えかねません。学力も大切ですが、これら何十年も生きていくわけですから、子供たちの健康問題も無視してはいけません

また、これは人によって違うのかもしれませんが、個人的には、1日中パソコンの前から動かずずっと画面を見ていなければならないのはかなりきついことだと感じます。教員の視線を感じづらいということも相まって、授業を受けていてもオンラインでは集中できないということも少なくないのではないでしょうか。もちろん授業内容によりますが、長ければ長いほど、つまらない映画を見ているみたいで苦痛だと思います。

 

d)教員側の負担

子供たちにとってだけではなく、教員側の負担も多くあります。すべての教員がICTに精通しているわけではもちろんなく、むしろ日本の教員は、昔ながらを好む方も少なくないため、これまでICTと呼べるものをほとんど使ってこなかった(プリントは紙、板書は黒板にというスタイルの)先生は多いです。

そんな中で突然授業をオンラインでやらなければならないというのは、差こそあれ負担を感じます。作成したプリントを生徒にオンラインで配布し、そしてオンラインでどう効果的にパワポを見せるかを考えながら作成し、生徒に授業のアナウンスをし、開始前には普段の授業より早めに入って準備をし、生徒の反応がなかなか感じられない中で慣れない授業をする…というのは本当に大変なことだと思います。それに日本の教員の仕事は授業だけではないのです。自宅で待機している生徒の状況を確認したり、時には電話やオンラインで面談をしたりする必要もあります。また、今のことだけではなく、学校が再開した後のことも事前に考えておかなければなりません。

 

他にも考えられるでしょうがとりあえずこの辺りにしておきます。

こういった困難がある中で授業を組み立てることを考えると、これまでの授業をそのままオンラインでやるべきではないのではないかという考えに至ります。

②のようにグループワークなどがある授業ならまだしも、特に知識教授や問題解説がほとんどの授業をやることの意味はあるのでしょうか。ネット上にはすでに「映像授業」で成功を収めている先人たちの動画が山ほどアップされています。そういった動画の作りは非常に簡潔で精巧なものです。スタディ○プリや東○予備校といった映像授業のパイオニア兼エキスパートに、映像授業ド素人の一般教員が「解説のみ」の授業で対抗するのは、アットホーム感という点を除けばほぼ無謀と言えます。

今回のような事態になって明るみには出ましたが、そのことにすでに気づいていた教員は実は少なくないと思います。多くの学校教師はやはり塾の講師なんかには負けたくないという思いはあるでしょう(し僕もあります)が、殊に受験指導という点において、塾講師はそれだけを専門的に何年も繰り返して研究し鍛錬しているわけですから、やはりそう簡単に敵うものではないのです。

学校は、学校だからできるエッセンスを授業にちりばめないと、存在意義を失いかねないという現実は残念ながらあるのです(すでに、「勉強はパソコン一つでできるんだから、学校など行かなくていい」という論調もあります)。

 

学校教員の重要な役割は、生徒たちが学校に通えない中で、いかに自宅でも学習に取り組めるかを考えることにあると思います。それこそ「学びを止めるな」です。授業の提供者という側面を捨てるわけではもちろんありませんが、コーディネーターという側面の方が現状は強くなっています。そういう視点から考えれば、必ずしも「オンラインライブ授業」を提供することだけが、つまり「授業をすることだけが」教員の正義ではないのです。例えば、

・課題は何をさせるのか(市販のもの?ネット上のもの?自作のもの)

・自作のものを用意するならば、極力自習でできるためにはどんなスタイルの課題が良いのか

・課題を補助するものとして何を使うのか(教科書?参考書?ネット上の映像授業?あるいは自身で作成した動画?)

・課題はどう提出させ、どうフィードバックするのか

・達成度の確認をどのようにするのか(課題を見るだけで十分?オンラインでテスト?ライブ配信授業でグループワークをさせる?) etc...

これらの様々な選択肢から最適なものを教員が”コーディネート”し、生徒に提示することが今は求められるのです。

特に重要なのは、いかに市販のものやネット上のものをうまく利用するかだと思います。どうしても熱心な教員ほど、自作のプリントを作りたがるし、授業も「ネット上の○○先生の授業見て」なんて言うのはプライドが許さなかったりもするのですが、今一番大事なのはそこではない、ということは重要だと思います。

 

…すいません。書いているうちに、書きたかったことから大きくズレていってしまいました(苦笑)。だいぶ長くなりましたが、上に書いたことは、僕が言いたかったことの「一例」にすぎません(教育の話を主にしたかったわけではなかった…)。

 

言いたかったことは、要は、新型コロナウイルスという目にも見えないほどの存在に、我々が築いてきたものを根底から崩されつつあるということです。そしてこういった事態によって明るみに出てしまったものに関しては、コロナが収束した後でも、きっと蓋されることなく、新たな常識として残り続けることになるでしょう。

AIの進化が目覚ましく、2045年にシンギュラリティ(AIが自ら人間より賢い知能を生み出す事が可能になる時点)を迎えると言われ、それまでに人間は人間にしかできないことを見つけなければ、、、などと言っていました。しかし、その現実が、全然違うのによって、25年も早くして、人間は完全なる刷新を迫られてしまいました

「アフターコロナ」について考えた時、今我々に必要なのは、いったい何なのか――それについて書くつもりだったのですが、例示でかなりの字数と労力を費やしてしまったため笑、今回のブログは「序章」として、次回「本章」を書かせていただこうかと思います。

 

とりあえず今日は、教育界の現状を知ってもらえれば幸いです。

とはいえ大学生の皆さん!つまらなく思えても、きっと大学教授の方々も悪戦苦闘しながらオンライン授業をしていると思うので、ぜひ一生懸命聞いてあげてください…なんてな笑。

 

それではー。次回に続く。

 

【情報解禁】とても個人的なお話

皆さん、こんにちは。

昨日は東京で143名の感染者が確認され、また感染経路不明者が半数を超えたということで、コロナウイルスに関する状況は次のフェーズに進んだのかもしれません。どこか、ものすごく多くならないところで何とか感染拡大のピークを迎え、徐々に感染者が減少していく…ということを今は祈るしかないですね。

そのためには、不要不急の外出を控えること、しなければならなくても三密を避けること、そして顔をむやみに触らず手洗いを徹底する、などを一人一人ができる限りしていくしかないのだと思います。

緊急事態宣言が出たとて、日本の現行の法律では人権を尊重するために「外出禁止令」は出せないので、この「私たちがすべきことはあくまで自主性によるものである」という状況はほぼ変わりません。逆に、宣言が出たからといってパニックに陥る必要もない。そういったセンセーショナルな「タイトル」に左右されず、本質を見極めて行動できる力が、こういう時は何よりも大事だと感じています。

  

さて、この記事はインスタグラムでわざわざ更新時間を告知して更新しました。

まぁ大した話でもないとは言えましょうが、個人的には重要な話なので、こちらの記事でお伝えしたいと思います。ここが適切な場なのかはわかりませんが。

 

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僕の勤務校では本日、午前に学年ごとの時差登校を実施し、新クラス・担任を確認し、教科書等を受け取りました。もうそろそろ帰宅していることでしょう。午後には入学式が予定されていましたが、例に漏れず延期を余儀なくされました。しかし、13時には一旦登校し、担任やクラスメイトと顔合わせをしました。

 

それで、もうそろそろ情報解禁してもよいかなと思い、14時更新ということにしました。いずれ分かることなら、早いうちに。

 

 

勘の良い人は気づいているかもしれませんね。

 

「なんでこの時間にお前はブログなんか更新しているんだ。」

「仕事中じゃないのか。」と。

 

 

 

非常に私事で恐縮ですが、

去る3月31日をもって、9年勤めた勤務校を離れることに致しました。

 

衝撃を受けた人も少しはいるかもしれませんが、ぜひ最後まで読んでください。

最後まで!」お願いします。

 

 

ここからは、こういう決断に至った経緯を綴りたいと思います。

大きく分けると3つの理由によります。

 

■6年間という経験

勤務3年目から8年目までの6年間、同じ生徒たちを持ちあがりで見ることができ、入学式から卒業式までの担任としての一連のプロセスを経験させてもらえたことは、自分にとって、非常に大きいことでした。

私の学校は私立の中高一貫校ですが、全先生を見渡しても、中1から高3まで6年間担任教員として持ち上がれた先生は、それほど多くありません。そのような中で、大学新卒3年目のしがない若輩教員に、一つの学年を6年間持たせてくださったことに対しては、学校には感謝の念しかありません。

そして受け持った生徒たちは、始めの方こそ色々な"事件”もあって悩まされたり苦しまされたりもしましたが笑、彼らが成長するにつれて一人の人間対人間として話ができるようになり、色々なことを屈託なく話してくれるようになり、今では卒業した今でも声をかけてくれるような、人懐こく朗らかで優しい大人になってくれました。

「やり残したことがないか」「もっとできたことはないか」と問われればないとは言い切れませんが、そんな生徒たちと6年間を共にし、あらゆる学内イベントを経験したことで、自分の中では「これ以上にない充足感」のようなものを感じたのは事実です。

学校としてはおそらく、「これで全部の仕事経験したよね、これからはどの学年、部署に入っても大丈夫だよね」という状態に早く育てたかったのかもしれません。しかし皮肉にも、その充足感ゆえに、僕自身は「さて、この先どうしよう…これ以上の経験ができるのだろうか」と思ってしまいました。プロの教員、社会人としてはダメなことかもしれませんが、一人の人間として一種の「虚無感」のようなものを覚えたのです。

 

■生徒の進路相談から

6年持ち上がる中で、高1あたりからは生徒たちの「進路」の話をする機会も徐々に増えました。どんなこと学びたいの?文理の選択は?学部は?大学は?将来何がしたいの?……といった具合に。

40人の生徒がいれば当然40通りの考えがあるので、個別にひたすら、何回も生徒たちとそういった類の話を繰り返すわけです。1年に5回面談をすれば200回ということになる。

そうすると、自然となのか、自分もまだ若い(つもりだ)からなのか、「自分はなんで教師になったんだ?なんでなりたかったんだっけ?大学では何をしたっけ?あんなこともできたんじゃないか?別の道もあり得たんじゃないか」などと思い巡らせる機会も増えました。

中高一貫校に入学し、何かに打ち込むわけでもなく、絵にかいたような青春のいくつかのパターンのどれからも遠い中高生活(少しだけ文化祭に打ち込んだあったくらいかな)。少し勉強が得意だから大学受験くらいは頑張ろうかと思って東大受験にトライし合格することはできましたが、当然大学には「天才」と言える人たちがゴロゴロいて(というか、自信のなかった僕にはそう見えたのかも)、あまり馴染めた感じはしませんでした。サークル選びにも苦労し、気づいたら新歓も終わりかけていた中で、たまたま体験会に参加したアカペラサークルの雰囲気が良くて入会。その後は幸いアカペラに打ち込めて、バンドを大量に掛け持ったり幹部を務めたりして、充実した3年間を過ごしました。一方で、いくつかの授業を除いては、せっかく東大に入学したのに勉学に関しては打ち込めなかった。というか、サークルと家庭教師に忙しすぎて「単位取得は最短ルートで」という省エネ根性が発揮されてしまい、結果、「国語教師になる」というミッションの完遂だけが目的と化し、大して精査もせずに学科を選んでしまいました。せっかく3年で学部が選べる環境にあったのにもかかわらず……。同期も少ないし、想像とは違う学問内容でそれほど傾倒もできず、論文すら書かずに大学を卒業しました。サークルを離れるという考えが全くなくて(それがほぼすべてだったから)、海外にも興味がなかった。唯一の救いは(そこまで言うほど悲惨でもないが笑)、大学卒業間近の1か月間だけ韓国に語学留学できたことでしょうか(自分的には大冒険だったな)。そして、新卒で母校に舞い戻って就職し、丸9年を経た。これが現在。

端的に言うと、「僕の人生、とても世界が狭いな」と思ったんです。おおむね順調と言えばそれまでですし、それが悪いわけでは全くないのだけど、ふと振り返った時に、なんか人に比べて経験値がすごく小さいんじゃないかと。あるいは、他人と比べてというよりは、高校教師という仕事をしていくうえで、経験に乏しいのは、なんかとても大きいディスアドバンテージなのではないかという気がしたんですね。その中で、このまま居心地の良いこの学校で働き続けていてよいのか?という気持ちが湧きました。

 

■家族をもつということ

私も今年の1月で31歳になりました。社会人としてはまだ若い、、とは言っても良い歳です。同年代の友人知人は次々と結婚し、子供を設けた人もいます。

僕は残念ながら今現在予定は全くないのですが笑、だからこそこれは、今が環境を変えるチャンスなんじゃないかと思ったのです。

やはり家族をもつということは、安心や幸せと引き換えに、自由を(少なくともある程度は)失うことになると思います。というか、周囲を見ているとそう感じます。それは時間的にも、金銭的にも、そして精神的にも、です。

一方僕は、そういった束縛はほぼないに等しい。自分で稼いだお金は基本的に自分のためだけに使えるし、仕事以外の時間は好きなことができるし、誰かに罪悪感を感じる必要もほぼない。

とはいえ、ずっとこのまま“独身貴族”を謳歌するというわけにはいきません。自分だっていずれは家族が欲しいし、少しくらい親孝行もしたいなとは思うわけです。31という年齢を考えれば、すでに婚活に打ち込むべき時期だとも思います。

そういうことを総合して自分のライフプランを考えた時に、「好きなことをやるなら、環境を変えてみるなら、今しかない!」と思ったのが、今年だったのでした。

 

…と、多くの人が興味もないであろう自分の思考回路を描いてみたわけですが(笑)、これらの理由から、今年、学校を離れる決断をしたのです。

 

 

それで、じゃあ何をするの?という話ですが、結論を先に言うと、このコロナの影響で今のところほとんどの計画が"頓挫”しております。実に無念です。

 

本来であれば、僕は今カナダにいるはずでした。自分の中で「教育」への興味を今まで20年ほど失ったことはなく(なんで教育学部行かなかったのか本当に謎)、これからも携わっていきたいと思っているため、国語教育が日本より進んでいるカナダの高校にインターンシップとしていく予定でした。カナダ(特にバンクーバーなどの西海岸)の学校では日本語教育が行われています。そこで日本語の授業のアシスタントや文化紹介などをしながらカナダの学校の良いところを学び、ホームステイで英語も上達させちゃえ!というプランだったのです。

欲張りな僕は、カナダで3か月のインターを経験した後は、せっかくだしオリンピックに携われる何かをやろうと思っていました。スポーツ観戦がものすごく好きというわけではないのですが、オリンピックって見ると僕はどうしても感動しちゃって、なんか好きなんですよね。こんな近いところで開催される機会なんて一生にまたあるかわからないから、それだったら何かしようと、直接的でも間接的でもいいから。

それでも飽き足りない僕は、クルーズ船に乗るつもりでした。「ピースボート」ってご存じですか?居酒屋とかに行くと、トイレのドアとかに「地球一周、船の旅!」とか書いてあるポスターが貼ってある、あれです(僕の読者の多くは居酒屋に行っちゃいけないはずなんだけど…笑)。なんだかいかがわしい団体なんじゃないかと僕も思っていたのですが、「The Joureny」という本(下記リンク参照)に乗った人の経験が書いてあったり、あとは私の勤務校で同じ国語科の大先輩(M先生)が昔乗った(そしてそこで奥様を見つけられた笑)ということを聞いたりして少し安堵し、世界を一周してみたいと思っていた僕は「ピースボート」に興味を持ちました。乗っている人は多くがリタイアしたシニアの方々ですが、それも7割で、多くのクルーズ船と違うのは、若者も多く乗っているということ。仕事を辞めた社会人や大学生、専門学生、それに中学生や高校生もいるそうです。社会人経験のある人には面白いことをしていた人もいるから色々話を聞きたいし、一方で大学生や高校生にはなぜ乗ったのかを聞いてみたい。普段の生活では出会えない人たちに会える(つまり対人経験がどっと増える!)んじゃないかなと思ったんですね。また、名前の通り、「ピースボート」は国際交流を通して「平和」を考える活動も船内や寄港地で行っています。著名人の話を聞いたり(以前あの池上彰さんも来たとか!)、孤児院を訪れたり、先住民族と交流したり、、、そんなことが3か月の中で一挙にできるのはとてもコスパがいいなと。クルーズ船の中では値段も安いほうだし、何より、「船で地球一周したんだぜ」って、なんか格好良くないですか?笑。(興味のある人は下記リンク見てみてください!)

船から降りた後は、残りの時間で「やり残したこと」あるいは「もう一度深くやってみたいこと」に取り組めたらな、と考えていました。

 

プランは僕の中では完璧だったのですが、まさかまさかのコロナの影響で…本当に憎たらしいですが、仕方ありません。まだ上記プランがご破算になったわけではないので、自分は今、自分のできることをしながら、収束を祈りたいと思います。

 

 

というわけで、僕は今、毎日家におります笑。

今は何か家でできることをとにかくやります。その一つがこのブログです。本当は海外生活のことなどを発信しようと思って、1月から試験的に始めていたのですが、まさかこんなことになるとは…。でも家に居ながらでも得られる情報や考えたことは発信していけるかなと思います。

あとは、何か資格でも取ろうかと思っています。興味のあるものはいくつかあって、今一つは勉強を始めているのですが、何かオススメがあったら教えてください笑。

次に語学。英語のブラッシュアップはもちろんしたいですね。来たるカナダのために…!便利なことに今はオンライン英会話なるものもかなり知名度が上がってきました。僕は「Native Camp」というのをやっています。iPhoneでもできるし、スカイプより回線が安定していてオススメです(下記リンク参照)。また、英語もさることながら、せっかく覚えた韓国語をもう取り戻したいし、中国語やスペイン語にも興味があります。

最後に楽器。楽器の一つや二つ、やっぱ大人の男なら弾けていたいですよね…笑。本当はドラムがやりたいのだけど家だと到底無理なので、ベースかピアノでもやろうかなぁ(オススメは?)ちなみに、ギターは指が短くて太いから無理でした笑。

 

お前の家での過ごし方なんかどうでもよいわ!と思うかもしれないけど、家でもできること、むしろこんな時だからじっくり一人で成長できることはたくさんあるんだよ、ということを、外に行けなくて悶々としている若者には伝えたかった。

特にうちの学校を卒業した人たちには、「コロナ?別に平気でしょ、若者は。どっか遊びいこ~」とか「うわーずっと家にいて飽きた、やることなさすぎ。ひたすらゲームしよ」とかいう風になってしまうのではなく、この状況をむしろポジティブに捉えて、良い機会にしてほしいなと思っています。思うだけでなく、僕自身がそういう一人になれるよう、僕も頑張ります。

寂しくなったら、便利な時代、友達とビデオチャットも簡単にできますしね。オンライン飲み会やってみましたが、案外面白いですよ笑。

 

 

 

■「最後」に

最後まで読んでね!」と始めに言いました。

長くなってしまったし、すごく個人的なことばっかでしたが、ちゃんとここまで読んでもらえましたか?ありがとう。大事な話をして締めたいと思います。

 

僕は、学校を「離れた」とは言いましたが、「辞めた」とは言っていません。

 

ホント最悪ですね。早とちりした人がいたらごめんなさい(ごめんなさいとか言って、狙った確信犯です。。だけどこの鬱屈とした生活の少しでも刺激になればと思って笑。ホントすみません。)

 

実際は、今年の4月から来年の3月まで1年間、休職をさせてもらうことにしました(厳密にいうと「長期研修」なのですが、そこはあまり関係ありませんね)。

ですので、来年の4月には復帰する予定です(もしかしたら、延長するかもしれないけど…)。

 

とはいえ、コロナの影響でこのことを直接伝えられなかった部活動の部員達には、少なからず申し訳なく思っています。本来カナダにいる予定だったけれど、たぶん日本からは出られないだろうから、開催されるなら引退試合には顔を出そうかなと思います(OB、OGも行きましょう!)

 

そういうわけで、学校に来て会いに来てくれる卒業生も多くいるのですが、今年1年は僕は学校にはいません。

しかし、幸か不幸か(いや不幸ですが)、日本にはいますので、少し世の中が落ち着いたら、また声をかけてくれると嬉しいです。色々な話を聞かせてください。僕も、今だから話せることもあるだろうと思います。

 

そのお知らせをと思い、こんな長々とした文章を書いてしまいました。けれど、自分の考えや経験を伝えることが、大学生などの若者の「今」やライフプランニングを考える、なにかの参考になればな、と願っています。

 

「最後に」が案外長くなってしまいました。

始めだけを読んで「え、M先生辞めるんだって?!」とか言っている人を見かけたら、「ちゃんとブログ読んであげて!」とお伝えください。

 

それでは!

びっくりした人は、コメントをどうぞ笑。

 

 

【記事内で紹介したもののリンク】

〇「The Journey 自分の生き方をつくる原体験の旅」

www.amazon.co.jp

 

〇「ピースボート

www.pbcruise.jp

 

〇「Native Camp」

nativecamp.net

 

COVID-19に関する徒然ノート

何も書いていない日ですらアクセスしてくださる方が少しでもいるようで、更新を楽しみにしてくれているのかなぁと思うとうれしい限りです。

僕は今、できるだけ外出を自粛しようと思っていて、ほぼずっと家に引き籠っているので、そういうのがささやかな喜びだったりします……とか言っておきながら、[罪悪感]というものを差し引けば、あまりストレスを感じていない、、というところに、元来の出不精性を実感している今日この頃です。僕は元気です。

 

日がな一日テレビをつけ、ワイドショーをぼーっと見ていると、COVID-19やそれにまつわることについて知り、考え、思うことが色々とあります。少し自分の中で整理したいと思い、今日は書き留めておこうと思います。どちらかというと、読者さん向けというよりは、個人的なノートと思って書きます。

 

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※注意※

ここに出てくる情報は"2次"ないし"3次以上”の情報ですので、「ホントか?」と思うものは、ぜひ自分で調べてみてください。

また、ここに書く意見は、ワイドショーやネット記事を参考にした、僕の“私見”です。「ちがうだろー!」という意見ももちろんあって然るべきです。でも、叩かないでください(どっかの元議員みたいになっちゃうので…)

 

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バランスの取れた考え方(1)

これは、僕自身が日ごろ気を付けていたいと思うことでもあります。

ワイドショーを見ていると、ウイルスの話だからと、感染症関連の専門家が多く招かれ、意見を述べています。もちろんそれも大事なことですが、一方で「医学側」に偏った意見ばかりでは、それとは逆サイドのことがないがしろにされかねません。

今回のケースでいう「逆サイド」とは、「経済」に他なりません。つまり、医学側の言うように「今はとにかく活動を自粛、感染を拡大させてはならない」という意見は、一方で飲食業や観光業、それに付随・追随する職業の状況は完全に無視しています。

言うまでもありませんが、「自営の方のために、活動自粛なんてする必要はありません」という"極経済"な意見も、医学側視点を無視してしまうのでダメです。

人命が一番大事である

という言説・理念に、間違いはありません。だからこそ、医療側の考えに偏ってはいけないのです。

感染拡大のために首都封鎖(ロックダウン)するようなことになれば、倒産する中小企業・閉店を余儀なくされる個人経営店は後を絶たなくなり、失業者が世の中にあふれます。生活が立ち行かなくなり、自殺者が増える可能性は全くゼロではありません

また、外出自粛が長引き、人々のストレスがたまった結果、欧州ではDVや児童虐待の問題も深刻化しているとの報道もあります。家庭は崩壊、社会が荒廃した先に、人命が保障されるとは言い切れません。

このような時に重要なのは、いかに二つの相反する考えを中庸できるか、中庸ができなくとも、「あっちを立てればこっちが立たず」という状態にしないかという、バランスの取れた考え方が重要なのは間違いありません。

 

バランスの取れた考え方(2)

 また、「バランスの取れた」についてはもう一つ言いたいことがあります。

それは、「悲観性」と「楽観性」のバランスです。ワイドショーをはじめとするメディアでは、基本的に「悲観的なニュース」しか流れません。それは往々にして「ネット」という2次媒体の影響が大きいと考えます。ネットでの"炎上”が日常茶飯事になった現代では、楽観的なニュースを流そうものならたちまち「こうなったらどうするんだ」「だれが責任取るんだ」などといったアンチの意見が炎上します。さらにはそういう炎上に、加担せずとも影響されてしまう”世論”が多くあるのも現実です。そうであれば当然、世論を大いに気にするメディア(特に公共放送)は、楽観的なニュースを流すことに非常に慎重になります。結果、「とにかく悲観的な意見を流し込もう」という発想に陥ります。

しかし、悲観的なニュースばかりが流れるのは、「活動自粛」を促すうえで効果的ではありません。「人は終わりの見えない不安に駆られると、暴徒化してしまう」という心理学研究があり、それはその通りだろうと僕も思います。現に知事が「活動自粛」と言うだけで、人々がスーパーマーケット等に殺到し、あっという間に買い占めが行われてしまうーー日常と異なる行動をとってしまうという意味では、これも立派な暴徒化です。「俺はコロナだ」と言いふらして社会を混乱させようとする人も、もしかしたらこういった「先の見えない不安」が一つのファクターなのかもしれません(違うかもしれませんが)。

もちろん一方で、「自分は大丈夫だし、なったって8割は軽症なんでしょ?平気平気~」と楽観的な意見ばかりを鵜呑みにしてしまうのも当然ダメです。現にそういった楽観的過ぎる人々の行動が社会問題になっています(これを若者だけに限定する風潮にはとても違和感を感じますが)。

悲観的なニュースばかりを垂れ流すメディアの性質はそう変わりそうにありません。そうであれば、僕たちは自らで「ダメなこと」と「大丈夫なこと」に関する知識をしっかりと手に入れ、自らで考え判断し行動する力が今こそ求められると思います。(どっかで聞いたフレーズ…)

 

以上を踏まえて、少し具体的な話をしてみます。

 

■「緊急事態宣言」は出すべきか?

近頃はこの「緊急事態宣言」を出すべきか、否かの議論が白熱しています。簡単に分ければ、医学的視点では「即刻出すべき」であり、経済的視点では「まだ出さないほうが良い」という考えのようです。

僕は、今のところ出さないほうが良いと思っています。

 

【理由①】「緊急事態宣言」が出ても、できることは大して変わらない。

以下が「緊急事態宣言」によって各都道府県知事の判断でできることです。

 

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           (出典:朝日新聞デジタル

喫緊の課題は「いかに外出をやめさせられるか」だと思いますが、緊急事態宣言が出されても、「外出自粛」に関しては何ら変わることはありません。宣言されたからとて、外出すれば罰金を払わされるとか、法的に罰せられることはありませんし、知事にはその権限もありません。

 

【理由②】「緊急事態宣言」が出ても、状況は変わらない(私見

これは完全に私見ですが、宣言されても状況は変わらない、もしくは総合的には悪化する恐れすらあると思います。ワイドショーなどでは「できることは変わらなくても、国家の長が『緊急事態宣言』を出せば、世の中の人もさすがにこれはまずいと思って、外出しなくなるだろう」と聞きます。しかし僕は、この考えは甘いと思うのです。

僕は教員として何度も「〇〇しないといけない」「〇〇してると大人になった時に困る」「人のことを考えて」のような「警告」を生徒に伝えたことがあります。しかし、いつもその後の結果は同じで、本当に聞いてほしい人、伝えたい人(つまり、他人事だと思っている人)はいくら強調しても、個別で話しても、その根本はなかなか変わらない。むしろ、「いや、あなたには言ってないのよ」みたいなしっかりとした子にほど言葉が刺さってしまい、余計に不安を煽る結果になることもありました。

これは僕の一経験にしか寄らない考えなので信憑性は"?"ですが、でも「緊急事態宣言」もなんとなくそんな気がするのです。すなわち、すでに外出自粛をしっかりしている人ほどより不安を煽られる一方で、本当に"自粛”してほしい人は大して変わらないのではないかと。

 

【理由③】都市部と地方で状況があまりにも違う

「緊急事態宣言」というのは国家的に出されるものです。しかし実際、都市部と地方部では状況が大きく異なります。「各自治体の判断で」と補足されても、国としてそんなものが出された場合、地方部もそれに類する政策を打ち出さなければたちまち”炎上”することになります(炎上って厄介…)。今の時点で、「各自治体ごと」で対策が取れているのであれば、全国的に宣言を発する必要はありません。都市部などで、「緊急事態宣言が出ないとできないこと」があるのだとすれば、それは特例として国が認めればよい話です。「緊急事態宣言」はもっと後ろの砦として取っておくべきではないかと、個人的には思います。

 

■諸外国と状況を比べることの是非

最近のニュースで違和感を覚えるのは、他国や都市と日本の状況を比較し「日本の対応はだめだ」「たちまち日本もこうなる」などと不安を煽ることです。特に気になったのは、「NYと東京は類似点が多いから、東京もたちまちNYのようになる」という意見。その類似点というのは、面積や人口、都市構造、市外(区外)からの通勤・通学者の多さといったハード面ばかり。僕はそれだけではNYのようになると断言できないと思います。

そもそもアメリカと日本では文化が違います。教育も違えば、公衆衛生に対する考え方も、公的医療も社会保険も、何もかもが違う。日本人はもともと、スキンシップを好まない人種です。帰宅時や食事の前、トイレの後は手を洗うことを小さい時から口うるさく言われます。日本人は花粉症の影響、または顔を見せたなくないというシャイな性格もあり元々マスクが大好きです。日本は国民皆保険ですが、アメリカでは加入は個人の自由で貧しい人は保険に加入していない場合も多いです(PRC検査に30万円ほどかかることもあるとの話)。1000人当たり病床数は、日本13.1床に対してアメリカはわずか2.3床です。……。

これほどの「相違点」があるにも関わらず、その類似点だけを切り取って「NYのようになる」と不安を煽るのは、僕は違うと思います。さらにそれを言うことによって、結局伝えられる結論は「だから外出を自粛しましょう」というだけ。結局「外出自粛」を伝えるための「負のファクター」をとにかく送り付けているだけなんですよね。

もちろん「NYのようになる可能性」を否定しているのではありません。何も対策を打たなければなる恐れは十分にあるでしょう。しかし、外出自粛を促すためにその事実を用いるのは、不安を抱いている人の不安をさらに煽るだけであり、良の側面はないと考えます。

これに限らず、ただ単に「このままでは感染爆発だ」「医療崩壊になる」と不安を煽るだけのニュースには正直嫌気がさしますね…そういう人、少なくないんじゃないでしょうか。もう少し「人の心の掌握術」をメディアには学んでほしいです…(何をエラそうに笑)。

 

一方で、比較ではありませんが、「良いニュース」や「効果的な方策」についてはどんどん報じて、市民に希望を持たせるべきだと思います。

例えば、韓国。韓国の政策でいいと思うことはあまりないのですが(失礼)、コロナに関する対応はよかったと思います。コロナは中国の次に感染拡大した国として知られていますし、死者数も日本より多いですが、感染者数に対する死亡者数は1%台と日本よりも抑えられています(日本は潜伏感染者が多そうなので死亡率はもう少し低そうですが)。

韓国と言えば、日本とは反対に、いたるところでとにかくPCR検査を行い感染者を洗い出すという方策を取りました。それが良かったかは分かりませんが、良かったのはその後の対応で、「軽症者・無症状者」は病院ではなく「生活療養センター」と呼ばれる療養施設に収容したというところです。「生活療養センター」は、サムスンヒュンダイなどのいわゆる”財閥”と呼ばれる大手企業が自社の研修センターや社員施設を提供したものです。各部屋は基本個室でベッド、テレビ、冷蔵庫、風呂、トイレが完備されており、1日三食の弁当のほか、茶やコーヒーなどの嗜好品も提供されます。家族内で感染が見られれば同室も可能、医療従事者も常駐していて、いざというときはすぐにケアしてもらえたり、病院に連れて行ってもらえるとのことです。テレビで見る限りでは、「非常に快適に暮らせそう、何なら入ってもよいのでは」と思わせるほどでした。

日本では今、感染と分かれば基本的に即刻入院させられてしまいます。入院経験者として言えるのは、病院での生活は決して快適ではありません。検査が増えていかないのは、症状があっても「入院したくない」という理由もあるのではないでしょうか。人間の思考回路は物事を非常に都合よく解釈しがちで、検査結果が出ていない状況では、多少症状があっても「ただの風邪でしょ」と正当化してしまうのです。それが感染拡大につながっている側面もあると思います。

一方で、韓国のような施設が用意されれば、もし罹ってしまっても無症状・軽症なら快適かつ安心して過ごせそうですし、リモートワークくらいならできそうです。そうすれば、検査数も増えていき、感染源も終えるようになって、感染拡大につなげられるのではないでしょうか。

 

と書いているうちに、「コロナ軽症は自宅、ホテル療養を 厚労省が通知、入院は重傷者優先」という共同通信の報道が入りましたね。これは医療崩壊を防ぐためには非常に効果的だと思います。やっと、という感じもしますが、逆にあまりにも早くそうしてしまうと”安心感”の方が勝ってもっと感染拡大が急に進んでいた気もするので、タイミング的にはちょうどよいのかなと思います(すみません、医療現場とかを全然知らない者の意見ですが)。

一つ言うなら、「ホテル」はまだしも「自宅」はちょっとよろしくない気がしますね。まぁ検査に自ら行くような人は比較的しっかり考えている慎重な方だと思うので、自宅でじっとしていてくれるとは思うのですが、同居人がいる場合は「ホテル」を優先して使わせてあげてほしいですね。韓国の例でいえば、施設を提供したのがサムスンヒュンダイっていう「大手財閥」(つまり国としっかり癒着したつながった会社)ってのがミソですよね。財閥に関しては悪い点も目立ちますが、こういう時には本領を発揮するのね、と思いました。日本の大手企業もぜひ協力してほしいものです。

 

■早めの経済対策を

書きたいことがありすぎたことに驚いていますが、ちょっとクドくなってきたし、もはや当たり前のことなので手短に終わらせます。

とにかく国には、コロナウイルスによって打撃を受けている人たちへの補償を早くしてもらいたいです。これは「緊急事態宣言」なんかよりよっぽど喫緊だと思います。

小池都知事が、クラスターの感染源として「ジムやライブハウス」、感染者の行動パターンとして「カラオケ、バー、ナイトクラブ、酒場」などを挙げ、”三密”のところへの出入りを自粛するよう求めたのは、感染拡大を防ぐべき知事として適切な判断です。そしてそれに対する補償をするのは、(一部はしたとしても)基本的には都などの地方自治体ではなく国の役割だと思います。

消費税減税は、少し前なら効果があったかもしれませんが、ここまで外出自粛を声高に叫んでいる中で「消費税減税」というのは大きな矛盾をはらんだ議論です。消費税減税は「消費を促進する」ための政策であり、それはつまり、国民に「どんどん外で金を使ってくれ」ということに他なりません(在宅で使うお金なんていうのはたかが知れていると思います)。今必要なのは、所得が急減し、生活すら立ち行かなくなりそうな人を真っ先に救うことだと思います。

 

これも先ほど、「減収世帯へ現金給付、20万円」と共同通信からの報道がありましたね。自己申告制とのことですが、僕は全員一律10万円とかでなくてよかったと思います。自己申告などの制度の場合、"謙虚な"日本人は、ある程度の収入があればおそらく申告しないだろうと考えられるからです(不正が発覚したら罰則、とかであればなお虚偽申告は抑制されるでしょう)。あとは、1か月で十分であるとは言えないでしょうから、向こう数か月間は補償されるようになることを願います。

 

以上、実はまだ書きたいこともあるのですが、もう6,000字を超えてしまったのと、2時間半も書いているのと、さすがに疲れたので(笑)、ここまでにしたいと思います。

 

長くなってしまったので、最後に簡潔に!改めて自戒の念も込めて。

  • とにかく、バランスのとれた考え方をしよう
  • 「悲観的な情報」だけでなく「楽観的な情報」も入手しよう(メンタルヘルスのために)
  • 楽観的な考え、悲観的な行動」を(テレビで誰かが言っていたんだが、とても良いと思った)
  • 外出はちょっと我慢!家でできることを探そう。
  • 手洗いはこまめにしっかり。地味にスマホが超危険
  • 現状、感染はしないに越したことはない!若い人も安心せず。

 

それでは~。当分書かなくていいかな?笑

 

【映画随想】『新聞記者』

皆さんこんにちは。

いよいよ、首都圏で土日外出自粛が出ましたね。

まぁいつぞやの学校一斉休校よりはよほど意味も分かるし、今はしなきゃいけないかなという気になっている金曜の晩です。

こちらのブログは僕的には初めて納得できた記事です。

note.com

医療関係者ではないので分析的なところは甘いのかもしれませんが、だからこそ中立的で総合的な視点から書かれている気がします。

 

 

さて、今日は先日見た映画『新聞記者』について思ったことをのらくらと書いてみようと思います。ネタバレにはならないように書くつもりですが、いくらかは触れてしまうかもしれません。

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今作は先日発表の日本アカデミー賞で、最優秀作品賞、主演男優賞、主演女優賞を獲得した作品です。僕自身全然知らなかった作品なのですが、日本アカデミー賞を取ったということと、その前に見た『パラサイト』から感化されて社会派作品を見たくなったということもあって見てみたのです。まぁただのミーハーです。

『パラサイト』についての記事も前に書いたので、良かったらぜひ。

mrmr130.hatenablog.com

 

まずは簡潔にあらすじを(『新聞記者』公式サイトより引用)

 東都新聞記者・吉岡(シム・ウンギョン)のもとに、大学新設計画に関する極秘情報が匿名FAXで届いた。日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育ち、あるい思いを秘めて日本の新聞社で働いている彼女は、真相を究明すべく調査をはじめる。

 一方、内閣情報調査室官僚・杉原(松坂桃李)は葛藤していた。

 「国民に尽くす」という信念とは裏腹に、与えられた任務は現政権に不都合なニュースノコトロール。愛する妻の出産が迫ったある日彼は、久々に尊敬する昔の上司・神崎(高橋努)と再会するのだが、その数日後、神崎はビルの屋上から身を投げてしまう。……

 

まず僕はこのあらすじを全く知らない状態で見たのですが、これはお勧めしません笑。その手の事情に精通している人は分かると思うのですが、僕には途中までどういうことかわからないことが多く、少し理解に苦労しました。

そう考えると、映画という作品は、映画だけを見て楽しむべきなのか、それともこういった事前情報ありきで楽しむべきなのか、という議論は生まれそうです。

深く論じるつもりはないのですが、一点言うのであれば、「なぜ主演女優が韓国人なんだろう」というところが、後半に到達するまでわからなかったところは、最低でも知っていればよかったなと思いました。純粋な韓国人が日本語で演じる、さらにはそれなりに難しい専門用語なども言わなきゃいけないのはとても難しいので(発音よりイントネーションの方が難しいんですよね、実は)、そこはすごく努力されたんだろうなとは思います。

しかしやはり、少し日本語が不自然なところもなくはなくて、なのに名字が「吉岡」だから、「なんでこの人選んだんだろ?」っていうところがずっと気になっちゃったんですよね…。後半になってようやく「韓国人の母」というのが出てくるので、「あーなるほど」となるんですが、だったらもう少し早く言ってくれてもよいのかなと思ったり。まぁくだらない視点ですけどね。彼女自身の演技は、鬼気迫るものがあって、やはり日本人とは違う魅力があるなとは思いました(ド素人の感想でごめんなさい)。

 

ついこの前パラサイトを見たばかりだったので、中身は全く違えと、同じ社会派作品ということで色々と比較しながら見ていたのですが、やはり『新聞記者』の方はとても日本的だなーと思いました。“日本的”だと感じたのは、以下の二点。

 

①物語の展開の仕方

『パラサイト』の記事の方でも書いたのですが、日本の映画は、良くも悪くも展開に無理がない感じがします。つまり、登場人物のバックグラウンドや置かれている状況、伏線回収の仕方なども含めて、とても因果関係を大事にして物語が展開していきます。

例えば、主人公の吉岡リカは、父親が新聞記者であり、かつ過去に誤報を出したことで自殺に追い込まれていた、という設定は後半の話の展開に不可欠です。

また、この話の設定として、3つの「父と娘」という関係が大きくリンクしていると思われます。吉岡と父/杉原とこれから生まれてくる娘/自殺してしまう神崎と高校生の娘、という3つの「父と娘」です。

そういった設定や背景、それらの関係性が後半になってピタリと重なってくるというストーリー展開などの繊細さは、やはり日本映画ならではだなと個人的には思います。

一方で、後半に照準を合わせているからなのか、前半はその“重なる前のストーリー”がやや複雑な感じがしてしまいます。結局、推理小説のように、前半に「?」を頭に思い浮かばせ、後半に「!」というストーリー展開ということだと理解しています。

それに対し、『パラサイト』などは「?」と「!」が矢継ぎ早に来るような展開の作り方です。だから、日本映画がお化け屋敷のようなスローな展開だとしたら、外国映画(特に米とか韓とか)はジェットコースターのようなアップダウンの激しい展開であると言えると思います。

 

②物語の終わり方

これは書いてしまうと完全にネタバレになるのではっきりとは書きませんが、いわゆる日本的な終わり方だと言えます。もう少し言うなら「余韻」、ですかね。

『パラサイト』なんかは、重いようで、でもなんだか未来の展望がはっきりと見えるような形で終息するところが、見ている方もある意味スッキリした感じで見終えられる感じがしました。

一方の『新聞記者』は、正直、スッキリはしません笑。これは『万引き家族』を見た時にも思ったことですね。やはり日本人には「詫びさび」的な余白や余韻を大事にする精神があるのだなと改めて思いました。

スッキリしない余韻が悪いわけではもちろんありません。『パラサイト』のようにはっきりと終息させてしまうことは、ジェットコースターのようにスッキリと着地して戻ってこられる一方で、エンターテイメント性の方が前面に来てしまうために、社会問題の提起という側面ではどうしても弱まりかねないと思います。

それに対して『新聞記者』の方は、特に“メディア”というものについて深く考えさせられるという点で、非常に社会性が強い作品だと言えます。

 

①も②も、どちらが良いとか悪いとかいうことではもちろんありません。映画として伝えたいことを伝えることに成功しているか、どのように楽しんでほしいのか、ということが作り手と観客とで大きなギャップがなければそれでよいのだと思います。あとは見た人の好き好きの問題です。

僕自身としては、ストーリーを一度最後まで知ったうえで、もう一度見てみたいなとは思いました(映画館ではたぶん見ないけれど)。

 

 

最後に、この映画を見て思ったこと、そこから転じて最近考えていることを書いて締めたいと思います。

 

何よりも思ったのは、メディアというものの強さと怖さ

我々が手にしている、手にすることのできる情報というのは、本当に一部でしかありません。それはすべて、「メディア」というものがその名の通り情報媒体として、取捨選択をして我々に届けているからです。

そしてそれがさらに、映画の中に出てきたように、「不都合な真実」を捻じ曲げて「都合の良い嘘」に作り替えているのだとしていたら、もはや我々は何も信じることができなくなります。

こういう状況下に置かれている我々に必要なのは、いったい何なのでしょうか。

メディアリテラシーという言葉がありますが、それは一部としては役に立ったとしても、それだけでは十分ではないでしょう。表に出てきている情報が「都合が良い」と選ばれたものだけである可能性は多くあります。それは「真実」ではないけれど、決して「嘘」でもないのです。だから「何が正しいかを見極めろ」と言われても、正直無理なのです。

そう考えると、何が必要なのか正直分かりません。

 

近頃は、嫌というほどテレビでもネットでも「コロナ」の話題一色です。そしてメディアは我々を煽るような情報ばかりを流します。

それはメディアというものの特性上致し方ない部分もあります。とくにテレビは基本的に「現在の(目に見えている)弱者」の見方をしないと完全に叩かれてしまうので、仮にも「コロナは大したウイルスじゃないですよ、心配しすぎです」なんてことを言おうものなら、たちまちその番組は終了に追い込まれるでしょう。

実際に死者も出ているので、そうとは言えないと思いますが、僕がどうもスッキリしないというか辟易としてしまうのは、そういう情報に全く希望が見えないということなのです。「オリンピックをいつまでに延期」などというのは、予定であり希望にはなりません。

我々が知りたいのは、「この先どういう形でこの問題を着地させたいのか」ということ。人は「漠然とした不安」に一番堪えられないのだそうです(ある心理学者による)。そういえば、芥川龍之介も「ぼんやりした不安」という言葉を残して自殺してしまいましたよね…。

今、感染爆発を起こさないようにするということは分かるのですが、かといって日本からコロナウイルスが無くなるとは考えられません。2週間自粛した後、我々はどうなるのでしょうか。自粛延期とかでもされようなら、暴動が起きてもおかしくありません。現に中小企業や個人経営の飲食、観光業などは危機に瀕しているのです。

毎日のように「今日の感染者は」「今日の死者は」「最大です」「クラスター発生」「外出しないでください」「首都封鎖になりかねない」と聞かされれば、「もう聞いてらんねーよ!」って自暴自棄になるのも無理はありません。

 

我々がメディアに操作されるのは、もう仕方のないことだと思います。だとすれば、メディアの役割として、ただ単に我々の危機感を煽るだけではなく、我々が少しでもいいから希望を持てるような情報を提供することも求められるのではないでしょうか。メディアは「希望を与える存在」であってほしいと、強く願います。

そういう意味では逆に我々は、色々なメディアから情報を集める力が大事だと思います。そしてそれらを精査することのできる冷静さと賢さです。

 

僕はクリスチャンではありませんが、僕の好きな言葉に「ニーバーの祈り」と呼ばれるものがあるので紹介します。第二次世界大戦中に、アメリカの神学者・ニーバーが兵士らに対して説教をした時の言葉の一説です。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

                  Reinhold Niebuhr

  (訳)

神よ、

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

今の僕たちに必要なのは、実にこの「勇気」「冷静さ」「知恵」の三つなのかもしれません。

 

なんだか『新聞記者』の話からだいぶ逸れてしまいましたが、色々考えさせらる映画であることは間違いなので、一見の価値はありです!それでは。

「コロナ騒動」の楽観的でド素人的な見方

少し日が経ってしまいました。

皆さまお元気でしょうか?

世の中は新型コロナウイルスという目に見えないものに完全に踊らされてしまっていますが、幸い周りには感染陽性をもらった人はいないようです。

 

というわけで今日はコロナウイルスに関する、非常にど素人的で楽観的な話をしたいと思います。

 

先に断っておきます!

僕が語る内容は真実ではない可能性も十分にあります。

したがってこれを読んで、「えーじゃあコロナ問題ないじゃん」という結論には至らないでください。

 

一方でここで書いた内容自体は僕の憶測ではなく、ネットのニュースや記事、テレビで見た内容であり、僕自身が「こういう見方もしている」というのは事実です。

なので、もしこれを見た医療関係者の方、あるいはコロナウイルスに精通している方は、「世の中の報道によって、こういう考え方をしている人もいる」という事実だけは知っていただき、真実の周知徹底に寄与していただければ幸いです。

 

 

①「コロナって本当に怖いの?」

このように僕が考えるに至った大きな理由は、日本における肺炎による死者数です。昨年6月に厚生労働省が発表した「平成30年人口動態統計月報年計(概数)の結果」によれば、平成30年の肺炎による死者数は94,654人。これは1日あたりに計算すると250人となります。

一方の新型コロナウイルスはどうでしょう。3/21現在の死者数は35人。最初の死者発生が2/13だったので約40日間で35人ということになります。数字だけ見ると、一般の肺炎に比べても、死者は多くないように見えます。

 

さらにこれは検査の数とは関係がありませんよね。

現在の日本の制度では、「検査の必要がある場合には検査をする」ということになっているようです。これは憶測ですが、「明らかに危ない」という患者に対して検査を施していないということはないと思います。とすれば、この「35人」という人数から漏れてしまった新型コロナによる死者というのはほぼいないだろうと思われます。

言い換えれば、「検査数を増やしたところで、死者はこれ以上増えない」ということ。だから、検査数にかかわらず、”本当に"死者数は35人なのだと思われます。(どこか漏れていることがあれば教えてください!)

 

もちろん「35人だからよい」ということは決してありません。1人でも死者が出ているのは事実ですから。しかし、未知の病という恐ろしさはあるものの、まるで「殺人ウイルス」かのように語られる今の風潮にも僕は疑問を感じざるを得ないのが正直なところなのです。

 

②「検査数を増やすべきなの?」

日本は検査数が圧倒的に少ないと、国内外で非難がする声もあるようです。

しかしどうなのでしょう。本当に検査数を増やすべきなのでしょうか。

 

現在行われているPCR検査というものは、実はそれほど精度が高くないのだそうですね。3割くらいは取りこぼしがあるといいます。入院している人も、「2回連続が陰性」にならないと退院できないらしい。

仮に、検査数を増やして、感染者が爆増したらどうするのでしょうか。当然のことながら、病院に全員を押し込めるなんてキャパ的に無理です。自己隔離と言ったって、家族と暮らしていれば家族から広がる可能性はあるし、じゃあ1人でも感染者が家に居たら一家総出で疎開でもしなければならないのでしょうか…

見えない恐ろしさも十分わかるけど、見えないほうが良いこともあるんじゃないか…と少し思ったり。

 

それに、結局今のところ、検査して陽性だったとしても、それに対しての治療法はないんですよね。結局「あなたは陽性です、でも軽症なので、家で養成しててください」と言われるだけ。

それより僕は、今のように、「本当に検査をしたほうが良い人」が迅速に検査、入院療養ができるように少し余裕を持たせておくべきではないかと思うのです。

 

今イタリアなどでは死者数が尋常ではありません。これは検査の問題ではないと思いますが、日経新聞によればイタリアは、“欧州連合EU)が求めた財政緊縮策として医療費削減を進め、医療機関を減らしてきた”ために、重篤患者のケアが追い付かなくなっているといいます。

 

感染確定者が増えて軽症でも感染拡大阻止のために入院させようということになったら、同様の医療崩壊は十分に考えられると思うのです。

 

③「本当に外出を自粛すべきなのか?」

これは難しいところですね。確かに感染拡大をしないためには、外出自粛は効果的なのかもしれません。

 

しかし、僕が気になっているのは、新型コロナウイルス「COVID-19」の“スペック”です。

潜伏期間が平均8日、MAX14日(or more)ということ。

飛沫感染のみならず接触感染も感染原因になること。

軽症だと風邪とほとんど症状が変わらないこと。

無症状の感染者までいるということ。

一回治ったと思っても再発する可能性もあること。

 

僕はどうしてもこれを見ると、途方に暮れてしまって、「感染拡大を防止するなんて、無理じゃないか…?」と思ってしまうのですよ。本当にすべての経済活動を停止し、全員が個室から出ずに1か月過ごす!とでもしないと、ウイルスは消え去りません。

 

そんなことでもしたら、今度は違う場面での「死者」が増える恐れがあります。現在の外出自粛モードによって、痛手を負っている人は、実際、「コロナ感染者」より圧倒的に多いと推測されます。場合によっては経営が立ち行かなくなったり、今後の見通しさえ立たなくなって精神疾患に陥り、自殺…というシナリオすら考えられます。

 

また、これが考えすぎだとして、別の視点で考えてみると、当然「外出自粛」が長引けば、健康体の人の運動レベルも当然落ちてしまうし、ストレスもたまってしまいます。すると元々は体力があった人たちでさえ免疫力が落ち、コロナウイルスに罹患し、重篤化する恐れさえ出てくるかもしれない。

 

全部「可能性」の話ですが、必ずしも「外出自粛」だけが正義ではないように思えるのです。

 

もちろん、高齢者と接する機会のある人は、そうでない人より一層気を付けなければいけないと思います。しかし、そうではない若年層や壮年層などについては、国ができる限り揺らがないようにしっかりと経済を回し、今「重篤患者」をケアできているレベルの医療を最低限維持するために下支えをしていくことも必要なのではないでしょうか。

 

僕はどっちかというと、コロナ自体より、コロナが終息した後に惨状が不安でなりません。そんな惨状にしないことも重要なことです。

 

 

以上が、現状の僕の「コロナ騒動」の見方です。

人命にかかわる話題なので、異論反論あると思います。

ただ、繰り返しますが、上に書いたのは、僕の憶測というよりは、メディアなどで医師や専門家と呼ばれる人々が語っている内容がほとんどです。

こういう見方をしている人も少なくないんじゃないかなというのが僕の正直な意見です。

 

先日、日本アカデミー賞を受賞した「新聞記者」という映画を見ました。それについての随想も近々書こうと思ってますが、簡単に言うと、本当に我々のものの見方は「メディア」に操作されているなということに改めて気づくとともに、その恐ろしさにも気づいたのです。

 

メディアを正しく見るというのは本当に大切なことですね…(僕が正しく見れているとは思いません笑。むしろかなり“危ない”見方をしている恐れもあります。そういう反面教師であってもよいかと思います)

 

医療関係の方は、本当にコロナが危ないのなら、

ぜひ納得させてほしいです…!!

 

それでは今日は、この辺で……