雑食系 国語教師の【Pillow Book】

春はあけぼの。国語とか教育とか、音楽とかメディアとか、旅とか社会とか人間とか。日本。

【随想】アフターコロナの世界を想う(序章)

前回の"衝撃(?)"ブログから早3週間が立ちました。

色々とご反響、応援の言葉などを頂き、ありがとうございました。

mrmr130.hatenablog.com

 

ずっと家にいるためなかなかアップデートされる情報がコロナの話くらいしかなく、久しぶりの投稿となってしまいました(近況報告はまた今度)。

 

緊急事態宣言の発出からも約3週間が経ちます。しかし、東京都の新規感染者数は4/25日時点で継続して100人を超えていま(本日4/26は72人と、100人を久しぶりに割ったようですが)。一時期の200人に比べれば減ったものの、いまだ「収束に向かっている」とは言い切れない状態です。経済対策も「朝令暮改」と揶揄されているし、一律10万円の給付も、果たして全員に届くのはいつになるのでしょうか。

 

おそらく、一部の業種を除き、ほぼ全ての職業・業種で混乱が生じていることと思います。これまでの常識というのが一切通用しない世界になったところもあるでしょう。

教育業界も例外ではありません。2月末に全国一斉休校の要請が流れて以来、多くの都道府県で休校措置がとられており、生徒が学校に通っていない期間がおよそ2か月となります。通常の夏休みの日数を超えてしまいました。

そんな中でも「学びを止めるな」ということで、多くの先生が、今生徒に対してすべてきこと、できることを考えながら、日々対策が練られ実行されています。

こういう時に教員は、「授業の意義」とは何かという問いを真正面に突き付けられます。普通に学校が開かれている間は、「どういう授業をしようか」と日々の授業については考えるものの、タスクに追われる忙しさあり、「授業はどうあるべきか」というのをじっくり考える機会はなかなか持てません(常日頃から意識したいとは思っているのですが)。それに対し今は、忙しいのは変わらないでしょうが、”通常の授業ができない”という障害によって、授業のあり方を考えざるを得ない状態になっていると言えます。

 

具体的に少し話してみます。

通常の授業は大きく分けると3つに分けられます。

①座学-知識教授・解説型授業(一斉授業の形態が多め)

②座学-応用・思考型授業(グループワークなど、協働学習が含まれる)

③実技系授業(体育や芸術系・技術家庭など)

(③に関しては、専門でないというのと、なかなか遠隔授業というのが自分自身イメージができないので割愛します。)

 

①と②を分けましたが、必ずしもはっきりと「これは①、これは②」と分けられるわけでもありません。多くの授業では、バランスの差こそあれ、①と②をまぜて行われているからです(「①だけ」という授業は依然として多くありますが、少なくとも「②だけ」いう授業はまだ少ないのではないかと思います)

対面式の授業であれば、そのあたりをうまく織り交ぜながらやることが可能です。始めの10分で新出の知識を説明し、その後グループで応用させながら考えて共有、そしてさらに発展的な知識を説明…といった具合に。

しかし、オンライン(ライブ)授業においては、実はそれが現実的に難しいのです。以下のような理由が考えられます。

 

a)生徒の空気を対面授業より感じづらい

教員は事前に授業の準備・計画はしますが、授業は”生きているもの”なので、やはり生徒の顔や様子を見たり、空気を読んだりしながら、教師は「次に出すカード」を瞬時に選びながら出しています。ある知識内容をしていて、「これはあまりわかっている感じがしないな」と思えばもう少し時間を延長して補足説明をするし、一方で「これはこれ以上説明しなくていいな」と気づけば早めにグループワークなどに切り替えてしまうこともあります。そうすることで、できるだけ生徒が主体的に授業に向かえるようにしているのです(計画通りきっちりやる先生もいますが…)

しかし、オンラインでは、その”空気感”を読むのはとても難しいでしょう。さらには、全員の顔をすぐにみられるわけではないし、中には顔出ししたくないという子もいます。チャットなどで質問してくれる子は良いけれど、分からなくてもいいやというタイプの子はスルーしてしまい、教師もそれを把握することがより困難です。そうなると、「計画通りきっちり」やるしかなくなります。グループワークに関しても、話し合いが進んでいるかどうかを一挙にみられる対面授業に対して、オンラインでは1つ1つのグループを回るしかなく、総体的に見ることがより難しいのです。

 

b)生徒が必ずしも参加できるとは限らない

対面授業では基本的に、学校に来てくれさえすれば授業に参加することが可能です(良いことではないですが、教科書なければコピーを渡せるし、筆記用具がなければ貸せます)。しかし、オンラインとなるとそうはいきません。生徒の家庭環境も様々だからです。本校のような私立学校でも、家にパソコンなどの情報機器がなかったり、ネット環境がなかったりする家も少なからずあります。それにパソコンが家にあったとしても「1人1台」という家庭はそう多くないでしょうから、兄弟が多くいれば、パソコンの争奪戦にもなりかねません。あるいは、パソコンがリビングにしかないのだけれど、授業を受けて自分の意見を言ったりしているところを親や兄弟に見られたくないということも、思春期の子供には十分考えられます。オンライン授業に関しては対面に比べて、参加したくてもできない子や、そもそも参加したくないという子が増える傾向はあると考えられます。

 

c)一日中ディスプレイを見ることのデメリット

これは「②」に限らないことですが、そもそも、一日中パソコンやスマホの画面を見ることになれば、子供にも色々なデメリットが発生します。視力が低下する恐れがあったり、ブルーライトによる頭痛、また肩こりや腰痛の原因となったりもするでしょう。また、もしイヤホンで音声を聞いているとすれば、聴力にも悪影響を与えかねません。学力も大切ですが、これら何十年も生きていくわけですから、子供たちの健康問題も無視してはいけません

また、これは人によって違うのかもしれませんが、個人的には、1日中パソコンの前から動かずずっと画面を見ていなければならないのはかなりきついことだと感じます。教員の視線を感じづらいということも相まって、授業を受けていてもオンラインでは集中できないということも少なくないのではないでしょうか。もちろん授業内容によりますが、長ければ長いほど、つまらない映画を見ているみたいで苦痛だと思います。

 

d)教員側の負担

子供たちにとってだけではなく、教員側の負担も多くあります。すべての教員がICTに精通しているわけではもちろんなく、むしろ日本の教員は、昔ながらを好む方も少なくないため、これまでICTと呼べるものをほとんど使ってこなかった(プリントは紙、板書は黒板にというスタイルの)先生は多いです。

そんな中で突然授業をオンラインでやらなければならないというのは、差こそあれ負担を感じます。作成したプリントを生徒にオンラインで配布し、そしてオンラインでどう効果的にパワポを見せるかを考えながら作成し、生徒に授業のアナウンスをし、開始前には普段の授業より早めに入って準備をし、生徒の反応がなかなか感じられない中で慣れない授業をする…というのは本当に大変なことだと思います。それに日本の教員の仕事は授業だけではないのです。自宅で待機している生徒の状況を確認したり、時には電話やオンラインで面談をしたりする必要もあります。また、今のことだけではなく、学校が再開した後のことも事前に考えておかなければなりません。

 

他にも考えられるでしょうがとりあえずこの辺りにしておきます。

こういった困難がある中で授業を組み立てることを考えると、これまでの授業をそのままオンラインでやるべきではないのではないかという考えに至ります。

②のようにグループワークなどがある授業ならまだしも、特に知識教授や問題解説がほとんどの授業をやることの意味はあるのでしょうか。ネット上にはすでに「映像授業」で成功を収めている先人たちの動画が山ほどアップされています。そういった動画の作りは非常に簡潔で精巧なものです。スタディ○プリや東○予備校といった映像授業のパイオニア兼エキスパートに、映像授業ド素人の一般教員が「解説のみ」の授業で対抗するのは、アットホーム感という点を除けばほぼ無謀と言えます。

今回のような事態になって明るみには出ましたが、そのことにすでに気づいていた教員は実は少なくないと思います。多くの学校教師はやはり塾の講師なんかには負けたくないという思いはあるでしょう(し僕もあります)が、殊に受験指導という点において、塾講師はそれだけを専門的に何年も繰り返して研究し鍛錬しているわけですから、やはりそう簡単に敵うものではないのです。

学校は、学校だからできるエッセンスを授業にちりばめないと、存在意義を失いかねないという現実は残念ながらあるのです(すでに、「勉強はパソコン一つでできるんだから、学校など行かなくていい」という論調もあります)。

 

学校教員の重要な役割は、生徒たちが学校に通えない中で、いかに自宅でも学習に取り組めるかを考えることにあると思います。それこそ「学びを止めるな」です。授業の提供者という側面を捨てるわけではもちろんありませんが、コーディネーターという側面の方が現状は強くなっています。そういう視点から考えれば、必ずしも「オンラインライブ授業」を提供することだけが、つまり「授業をすることだけが」教員の正義ではないのです。例えば、

・課題は何をさせるのか(市販のもの?ネット上のもの?自作のもの)

・自作のものを用意するならば、極力自習でできるためにはどんなスタイルの課題が良いのか

・課題を補助するものとして何を使うのか(教科書?参考書?ネット上の映像授業?あるいは自身で作成した動画?)

・課題はどう提出させ、どうフィードバックするのか

・達成度の確認をどのようにするのか(課題を見るだけで十分?オンラインでテスト?ライブ配信授業でグループワークをさせる?) etc...

これらの様々な選択肢から最適なものを教員が”コーディネート”し、生徒に提示することが今は求められるのです。

特に重要なのは、いかに市販のものやネット上のものをうまく利用するかだと思います。どうしても熱心な教員ほど、自作のプリントを作りたがるし、授業も「ネット上の○○先生の授業見て」なんて言うのはプライドが許さなかったりもするのですが、今一番大事なのはそこではない、ということは重要だと思います。

 

…すいません。書いているうちに、書きたかったことから大きくズレていってしまいました(苦笑)。だいぶ長くなりましたが、上に書いたことは、僕が言いたかったことの「一例」にすぎません(教育の話を主にしたかったわけではなかった…)。

 

言いたかったことは、要は、新型コロナウイルスという目にも見えないほどの存在に、我々が築いてきたものを根底から崩されつつあるということです。そしてこういった事態によって明るみに出てしまったものに関しては、コロナが収束した後でも、きっと蓋されることなく、新たな常識として残り続けることになるでしょう。

AIの進化が目覚ましく、2045年にシンギュラリティ(AIが自ら人間より賢い知能を生み出す事が可能になる時点)を迎えると言われ、それまでに人間は人間にしかできないことを見つけなければ、、、などと言っていました。しかし、その現実が、全然違うのによって、25年も早くして、人間は完全なる刷新を迫られてしまいました

「アフターコロナ」について考えた時、今我々に必要なのは、いったい何なのか――それについて書くつもりだったのですが、例示でかなりの字数と労力を費やしてしまったため笑、今回のブログは「序章」として、次回「本章」を書かせていただこうかと思います。

 

とりあえず今日は、教育界の現状を知ってもらえれば幸いです。

とはいえ大学生の皆さん!つまらなく思えても、きっと大学教授の方々も悪戦苦闘しながらオンライン授業をしていると思うので、ぜひ一生懸命聞いてあげてください…なんてな笑。

 

それではー。次回に続く。