雑食系 国語教師の【Pillow Book】

春はあけぼの。国語とか教育とか、音楽とかメディアとか、旅とか社会とか人間とか。日本。

【随想】余裕のない日本、変えられない日本。

久しぶりになってしまいました。

書きたいことがないわけではなかったのですが、何となく自分の中で点と点がうまくつながらずずーっと「んーどうしようかなぁ」とか思っていたら随分経ってしまったというところです。

ずっとうーんと唸っていてもしょうがないので、一旦打破しようと思い、違う内容を書いてみようと思います。まぁ読者の方からすれば、何を書こうとしていたのか分からないので何が違うのかもわからないと思いますが(相変わらず冗長ですみません)

 

今回はちょっと今までになく、愚痴に近い感じになってしまうかもしれませんがお許しください。基本的に僕は日本という国が好きなので日本から恒常的に出て行こうという気はないのですが、それでも当然僕の性に合わないところはあるわけなので(しかも些細ではないポイントで)、それについて書こうと思います。

 

今日(6/20)テレ朝で放送していた「池上彰のニュースそうだったのか!!」という番組を見ていて、自分がずっと思っていたことと重なる部分がありまして。

 

今回のコロナ禍において、日本は”IT化”が非常に遅れているということが明るみに出たのはご存知の通りだと思います。例えば、特別定額給付金。「オンライン申請」をあれだけ勧めておきながら、ふたを開けてみればオンラインの方が郵送より遅いという驚くべき事実。あるいはリモートワーク率の圧倒的低さ。それはいまだに”印鑑”というアナログの象徴のようなものの使用が不可欠であることや、リモートワークをするための環境を整っていないといった根本的な問題も影響しているようです。さらにはそういった物理的な問題にとどまらず、いまだに「会社に行ってこそ、労働である」という何か目的と手段をはき違えたような精神論まで、多くの場所で根強く残っていると聞きます。もしかしたらそちらの方が、物理的問題よりよほど深刻かもしれません。

 

しかし、驚いたのはそこではありません。まぁそこは残念ながらなんとなく想像がついたからです。

 

そのテレビ番組では、2013年に、第2次安倍政権がある戦略を「アベノミクス」の第3の矢として打ち出していたことが振り返られました。それが、「世界最先端IT国家創造宣言」と呼ばれるものです。こちらに関する記事をweb上で見つけたので、引用してみます。

 

2020年までの政府のIT(情報技術)政策の指針となる新戦略が閣議決定された。企業などが保有する膨大なデータ「ビッグデータ」の活用や公共データの民間開放、農業や医療分野へのIT導入など、最新トレンドがそっくり盛り込まれた。(中略)

20年までに「世界最高水準のIT利活用社会を実現する」ことを目標にした。安倍晋三首相の経済政策であるアベノミクスの「第3の矢」にあたる成長戦略に組み込まれ、安倍首相も「ITは成長戦略のコアであり、世界の後じんを拝してはならない」と意気込む。 (以下省略)

 日本経済新聞(2013/06/27)

 

これを「どーん!」って紹介して皮肉っちゃうニヒルなところが池上さんの好きなところなんですけど、まさかって感じですよね。

全然進んでねぇじゃんっていうww 今年2020年ですよ、あと半年ほどで終わりますよ、っていうねww

 

失礼、取り乱しました。

別に僕は政権批判をしたいわけではないんです。

 

この事実を知ったときに、「あ、やっぱり日本って、何をするにも、何を変えるにも本当に時間がかかるし、難しい国なんだ」ということを実感したんです。

その問題を論じる上で、池上氏が根拠の一つに挙げていたのが、「変更には大変な手間がかかり、時間がない」ということでした。結局日本においては、これに尽きるなと思っているんです。

 

話は変わりますが、以前現代文の授業で内山節氏の『余暇について』という文章を扱ったことを思い出しました。具体的な文章までは忘れてしまいましたが、要は「日本人は余暇というものを、時間の消費としか考えられないほど余裕がない。日本は、その余裕がないという状態が社会を前に推し進めてしまっている不気味な社会だ。」的な感じではなかったかと思います。

 

確かに日本人は、世界的に見て、圧倒的に労働時間が長いのは有名な話です。なんなら定時に変えることを”悪いこと”くらいに考える人もいまだにいるくらいです。残業も当たり前で、平日ともなれば9時、10時まで働いている人もざらにいます。有給休暇を取ることも容易でもありません(しかもそれが労働基準法に反していることすら知られていないという事実。有給休暇は理由なしに認められなければなりません。大学生の皆さんは働く前に知っておくべきですよ。)

もちろん日本人の労働の生産性が低いという問題もあるとは思うのですが、僕はそれと同じ程度で、「日本人は、たくさん働くこと=空いている時間を埋めることが正義だ」と思っている節があるのではないかと思います。

 

これは先ほどの「余暇について」にも見られる話なのですが、日本人の多くは、旅行をしようとなった時に、”ビーチで寝そべる”みたいな「何もしない時間」というのが無駄に思えて耐えられないのだそうです。正しくパッケージツアーが日本人に好まれるのは、例えば4日間の旅行期間であれば、その4日間に余白がないくらいみっちりと予定が押し込まれていて、分単位で行動が決められていることを是とする感性を持っているからだと思います。仮に”自由行動”という欄があったとしても、「じゃあ、ここに来たならあそこにはいかないとね!」的な感じで、予定を詰め込んでしまうんだろうと思います。(別に侮っているわけじゃありません、僕も気を付けないとそうしてしまう質なので…)

 

結局のところそういう人というのは、空白の時間があったときに、何かをしないと何か時間を無駄にしている感覚があるのだと思います。この根本には、「何かをすることが価値であり、何もしないのは無価値だ」という価値観によるものでしょう。そういう感覚は個人レベルから社会・企業・行政レベルにまで及んでいるのだろうと思います(というか、社会は個人が作っているんだから、そうなっていくのは至極当然ですね)

 

例えば、個々人が定時内に終わらせることのできる仕事のキャパシティを100としたとき、おそらく理想的な状態は個々人の平均値が80~90くらいであると思います。いや、もしかしたらもっと少なくあるべきかもしれません(だってそうしないと、有給休暇なんて制度絶対に成り立たないですからね。1人休んだ分をカバーする余裕がないと無理です)。

しかし、日本における平均値はおそらく100を超えています。それは残業時間の長さや休日出勤の数、有給休暇の取得率等を見れば明らかでしょう。つまり、日本の労働者はほとんどが”余裕がない”状態で日々の業務をこなしているということです。いわゆる自転車操業というやつです。

 

一方、何かを変えていくために”余裕”は絶対的に必要なものです。

まず何かを変えるには非常に労力がかかるためです。何かを変える時には、変わった後の状況をシミュレーションする必要があります。特に日本は”慎重”な国なので、シミュレーションには緻密さが求められます。

また、何かを変える時には、”過渡期”が必要です。AからBというシステムに移行する時、いきなり「はい、明日からAはすっぱりやめて、Bにします」とはなかなかいきません。大体は、「AとBが併用される期間」というのが存在します。まさに今回の「定額特別給付金」のような状況ですね。AとBが併用されれば、当然AにもBにも対応しなければなりません。Aだけだった時に余裕がなければ、Bに対応できないのは当然ですよね。それに、仮に「AからB」にスパッと変えられる状況があったとしても、人間は慣れるのも労力が必要だから、結局はAの時に余裕がないとBへの移行は相当困難であるだろうと思われます。

 

今日は教育の話には深入りしませんが、結局教育現場も同じです。

今回のコロナ禍によって、教育現場はもはや変更を強いられる状況にありました。しかし残念ながら、今までの膨大な業務はほとんどが減ることなく、そしてさらに「消毒」や「分散登校の対応」といったラクとは言えない業務が付加されたことで、教員はよりいっそう疲弊した状態になり、結局は”おおむね今まで通りで”という選択をせざるを得ない状況にあるのだと思います。

となれば、結局のところ、ピンチはチャンスであったはずでも、鉄を熱いうちに打てずに、元の形に(あるいは元の形の"強化"版に)戻ってしまうんだろうなと、割と確信を持ちつつ案じているのが今日この頃です。

 

これに関しては、もはや僕個人の力ではどうにもならないというか、解決策も思い浮かばないというか、割とお手上げな状態です。でもそうなると、何も変えていけないという残念なところに着地してしまい、勝手に悶々としています。

 

もし自分の代にそれが難しいのだとすれば、せめて自分の子供くらいの世代に関しては、そういう”余裕のなさ”みたいなものから脱却できるようになってほしいなとは思うんですが、学校や学習の本質をいうものをまったく考えずに、子供たちを無理に学校に登校させているところを見ると、「これって、結局、出勤することが労働だ」というあの残念な旧態依然理論と一緒じゃないかと思って萎えるんですよね。

 

完全に余談ですけど、僕は「自己有用感」という言葉があまり好きではないんですよね。それは「有用である」つまり「何かの役に立っている」というのが、まるで「何かを社会のためになることをしないといけない」ということを強いているかのように感じるからです。いやこれは捉え方の問題なので、別に、プーさんみたいに「何もしていないをしてるんだよ」精神で、それに何らかの”有用感”を抱けているのならいいのですが、どうも「何もしていないやつは、社会の役立たず」のように感じてしまうのは、もはや僕自身が「何もしないことは無価値」という国民病に冒されているからなんですかねぇ。

 

まぁたぶんこんなことを感じてしまっているのは、結局のところ、今の自分が大して社会の役に立っていないという感覚があるからなんでしょうね。(まぁ実際立ってないんですけどね。ひたすら家にいるだけなので)この休暇期間は未来への投資だ!とか都合よく考えるようにしていますけど、割と限界に近付いているのかもしれません。ちょっと第2ステップに進むことをそろそろ考えたいと思います。

 

なんか取り留めもないし、しまりが悪くてすみません。「もうちょっと世の中に余裕が生まれたらいいのに」という反実仮想的な願望を吐き出してみました。

 

たまにはダーク系も許してください。それでは~。