雑食系 国語教師の【Pillow Book】

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【随想】アメリカの人種差別問題から思うこと

先日アメリカで起こった事件は、非常にセンセーショナルなものでした。

まだ自分自身が詳しく呑み込めていないので細部に触れることは避けますが、黒人に対する白人の行動(特に警官がらみが多いイメージ)は言語道断なものだと思います。

それに対して、SNS等で様々な有名人、あるいは僕の身近な人がある種の抗議的アクションを起こしていますね。特にアメリカなどに由来がある人が多いように見受けられます。

 

今回はそれを見て最近思っていること、伝えたい事を、ちょっと書いてみようと思います。思いつきなので、あまり内容が練られていないのですが、鉄は熱いうちに打ちたいと思ったので。

ちなみに、上記のような行動を否定するわけではないこと、先に言っておきます。

 

確かに、アメリカにおける人種差別の問題は深刻であると感じます。さらに、その抗議デモに対して、白人代表かのごとき某大統領が武力行使をするというのは、タダ事ではありません。さらなる怒り、そしてそれに共感する人々のムーブメントによって、より一層過熱していく恐れがあります。

 

ただ世の中には、人種差別のみならず「差別」と呼ばれるものが、残念ながら五万とあります。宗教的差別、文化的差別、性差別、セクシャルマイノリティ差別etc. そして、差別になりうるものとして、地域格差、経済格差、権力格差、学歴格差、教育格差などの「格差」も予備軍として常に背後に存在しています。

 

ここで今一度考えてほしいことは、これらの問題の一部、あるいは大部分は紛れもなく日本にも存在しているということです。つまり、「差別」の問題というのは、全く以て、ヨソの国の問題ではないということです。

 

語弊を恐れず言うと、僕が厄介だと感じているのは、日本における「差別」の問題というのはあまり顕在化しにくいということです。

先ほどのアメリカにおける人種差別の問題は実際に人命が奪われている(それに映像として出回ってすらいる)のもあるし、一目見て違いが認識できるような明確性を持っているので、良くも悪くも大きな問題として取り上げられやすいわけです。有名人も加担するからより一層です。

でも日本における差別や格差の問題というのは、”表立って”人命が奪われているかが分かりづらく、非常に内面的な問題も絡んでいるうえに、日本人の国民性からして声を上げにくいため、なかなか問題として取り上げられないのです。

それではそれらは取るに足らない問題なのかと言えば、全くそんなはずはありませんよね。生まれた場所や家、性やジェンダーセクシャリティなどというものは、人種と同じで自らが選んだものではなく、生まれながらに持ったものです。しかしそれらがたまたま”普通と違う””普通以下である”というだけで、悔しいという言葉だけでは言い表せないほどの思いを抱いている人が世の中にはたくさんいて、それで自分を責め、苦しんでいます。さらにはそれによって自ら命を絶つ選択をしてしまう人も、残念ながらいます。

 

この機会だからせっかくなら言いたいと思ったのは、もし今回の件で少しでもアメリカの人種差別の問題に関心を持ったのであれば、「それでは、日本にはどんな差別や格差があるのか」ということをぜひ知ってほしいということです。

 

人間による差別的な行動というのは、人間が精神を失わない限り無くなることはない、というのが残酷な事実だと思います。

差別的な行動とは、自分(または自分たち)との差異を根拠に、相手の地位を低める行為ですから、これには本当に大から小まで幅があります。今回のように直接命にかかわる暴力行動は典型的だと感じられるでしょうが、いじめというのもある種の差別行為であるし、ちょっとしたからかいというのも広義ではそう言えます。

そして人間は、もちろん自分も含めて、時としてこのような行為をしてしまうものだと思います。自覚的にしている場合もあれば、無意識にしている場合すらあるわけです。「自覚」の方はもしかしたらなくしていけるのかもしれないけれど、「無意識」の方は「無意識」だからやめようがないんです。厄介ですね。

だからといって、じゃあもう仕方ないじゃん、となってはダメで、もし仮に自分がそういう言動を無意識にしてしまって、その時には気づけなかったとしても、後になって「あ、あれってもしかして」って気づけるかどうかが大事だと思うんです。その気づきが重なっていくことで自分の言動がメタ認知(客観視)されて、少しずつ減っていく。その気づきを得るためには、そもそもどういうものが差別になりうるのかを知らなくてはならないのです。

 

以前、Official髭男dismの「異端なスター」という曲について紹介させていただきました。その時はかなり軽快な気持ちで書いたのですが、でもやはり、あの曲に描かれているような「個性消失」の問題は、日本において根深いと思うのです。

人種や宗教といった顕在的な違いが少ないからでしょうか、日本においては内面的、あるいは内面の表象としての言動などの「個性」が標的になることが、特に子供の時に多い。というか、子供に多いのではなく、おそらく大人が(親や先生が)そういうことを言うから子供もそういうマインドになっていくんですよね。「あの子、ちょっと変ね」とか「なんで男の子なのに女の子っぽいのかしら」とか。あるいは、自分の子供に対して「そんなことすると変な子だと思われるからやめなさい」とかも、間接的に「普通と変」という違いを生み出しますよね。

それが子供の中で伝染していけば「いじめ」という問題に発展してしまう。みんないじめられたくないから、「個性」というものを自ら消していこうとするし、そこで育った大人がまた親になるから、この負の連鎖は留まることを知らないのです。

結局は、大人のせいだということは、肝に銘じなければいけませんね。

 

一番身近にいる家族や友人ですら、自分とは全く別の人間です。全ての人間は「同じ」であることは原理的にあり得ません。そして「同じになる」ことも絶対にできません。だから全ての人を較べればそこには必ず何らかの「違い=差」は生じてしまうのです。

だけど、機会や扱いなら平等であるべきだし、難しくてもそこに近づけていかなければならないと思うのです。

小学生の時、多くの人が「私と小鳥とすずと」という金子みすゞさんの詩を学んだことと思います。「みんな違って、みんないい」ってやつですね。この詩に表されたメッセージをいかに我々大人が体現できるかが大事なのではないでしょうか。とても難しいんですけどね…。

 

これを書いている自分自身も、書きながら「気を付けなければ」と身に染みているところは多々あります。だから偉そうにこんなこと言うべきでないのかもしれませんが、自分が身に染みているからこそ伝えたいと思いました。

 

自分が無意識に差別的な言動をしているかもしれない可能性を自覚しましょう。

そしてそれを少しでも減らしていくために、どんなことが差別になりうるのか、どんな差別や格差が実際にあるのか、ぜひ自ら知っていきましょう。

まずは日本の、身近な問題から。

 

尊大なことを、取り留めもなく書いて申し訳ありません。

一緒に考えていければと思います。それでは!

 

 

※以前書いた「異端なスター」のブログ。まだの人はぜひ!

 

mrmr130.hatenablog.com