雑食系 国語教師の【Pillow Book】

春はあけぼの。国語とか教育とか、音楽とかメディアとか、旅とか社会とか人間とか。日本。

【映画随想】『新聞記者』

皆さんこんにちは。

いよいよ、首都圏で土日外出自粛が出ましたね。

まぁいつぞやの学校一斉休校よりはよほど意味も分かるし、今はしなきゃいけないかなという気になっている金曜の晩です。

こちらのブログは僕的には初めて納得できた記事です。

note.com

医療関係者ではないので分析的なところは甘いのかもしれませんが、だからこそ中立的で総合的な視点から書かれている気がします。

 

 

さて、今日は先日見た映画『新聞記者』について思ったことをのらくらと書いてみようと思います。ネタバレにはならないように書くつもりですが、いくらかは触れてしまうかもしれません。

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今作は先日発表の日本アカデミー賞で、最優秀作品賞、主演男優賞、主演女優賞を獲得した作品です。僕自身全然知らなかった作品なのですが、日本アカデミー賞を取ったということと、その前に見た『パラサイト』から感化されて社会派作品を見たくなったということもあって見てみたのです。まぁただのミーハーです。

『パラサイト』についての記事も前に書いたので、良かったらぜひ。

mrmr130.hatenablog.com

 

まずは簡潔にあらすじを(『新聞記者』公式サイトより引用)

 東都新聞記者・吉岡(シム・ウンギョン)のもとに、大学新設計画に関する極秘情報が匿名FAXで届いた。日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育ち、あるい思いを秘めて日本の新聞社で働いている彼女は、真相を究明すべく調査をはじめる。

 一方、内閣情報調査室官僚・杉原(松坂桃李)は葛藤していた。

 「国民に尽くす」という信念とは裏腹に、与えられた任務は現政権に不都合なニュースノコトロール。愛する妻の出産が迫ったある日彼は、久々に尊敬する昔の上司・神崎(高橋努)と再会するのだが、その数日後、神崎はビルの屋上から身を投げてしまう。……

 

まず僕はこのあらすじを全く知らない状態で見たのですが、これはお勧めしません笑。その手の事情に精通している人は分かると思うのですが、僕には途中までどういうことかわからないことが多く、少し理解に苦労しました。

そう考えると、映画という作品は、映画だけを見て楽しむべきなのか、それともこういった事前情報ありきで楽しむべきなのか、という議論は生まれそうです。

深く論じるつもりはないのですが、一点言うのであれば、「なぜ主演女優が韓国人なんだろう」というところが、後半に到達するまでわからなかったところは、最低でも知っていればよかったなと思いました。純粋な韓国人が日本語で演じる、さらにはそれなりに難しい専門用語なども言わなきゃいけないのはとても難しいので(発音よりイントネーションの方が難しいんですよね、実は)、そこはすごく努力されたんだろうなとは思います。

しかしやはり、少し日本語が不自然なところもなくはなくて、なのに名字が「吉岡」だから、「なんでこの人選んだんだろ?」っていうところがずっと気になっちゃったんですよね…。後半になってようやく「韓国人の母」というのが出てくるので、「あーなるほど」となるんですが、だったらもう少し早く言ってくれてもよいのかなと思ったり。まぁくだらない視点ですけどね。彼女自身の演技は、鬼気迫るものがあって、やはり日本人とは違う魅力があるなとは思いました(ド素人の感想でごめんなさい)。

 

ついこの前パラサイトを見たばかりだったので、中身は全く違えと、同じ社会派作品ということで色々と比較しながら見ていたのですが、やはり『新聞記者』の方はとても日本的だなーと思いました。“日本的”だと感じたのは、以下の二点。

 

①物語の展開の仕方

『パラサイト』の記事の方でも書いたのですが、日本の映画は、良くも悪くも展開に無理がない感じがします。つまり、登場人物のバックグラウンドや置かれている状況、伏線回収の仕方なども含めて、とても因果関係を大事にして物語が展開していきます。

例えば、主人公の吉岡リカは、父親が新聞記者であり、かつ過去に誤報を出したことで自殺に追い込まれていた、という設定は後半の話の展開に不可欠です。

また、この話の設定として、3つの「父と娘」という関係が大きくリンクしていると思われます。吉岡と父/杉原とこれから生まれてくる娘/自殺してしまう神崎と高校生の娘、という3つの「父と娘」です。

そういった設定や背景、それらの関係性が後半になってピタリと重なってくるというストーリー展開などの繊細さは、やはり日本映画ならではだなと個人的には思います。

一方で、後半に照準を合わせているからなのか、前半はその“重なる前のストーリー”がやや複雑な感じがしてしまいます。結局、推理小説のように、前半に「?」を頭に思い浮かばせ、後半に「!」というストーリー展開ということだと理解しています。

それに対し、『パラサイト』などは「?」と「!」が矢継ぎ早に来るような展開の作り方です。だから、日本映画がお化け屋敷のようなスローな展開だとしたら、外国映画(特に米とか韓とか)はジェットコースターのようなアップダウンの激しい展開であると言えると思います。

 

②物語の終わり方

これは書いてしまうと完全にネタバレになるのではっきりとは書きませんが、いわゆる日本的な終わり方だと言えます。もう少し言うなら「余韻」、ですかね。

『パラサイト』なんかは、重いようで、でもなんだか未来の展望がはっきりと見えるような形で終息するところが、見ている方もある意味スッキリした感じで見終えられる感じがしました。

一方の『新聞記者』は、正直、スッキリはしません笑。これは『万引き家族』を見た時にも思ったことですね。やはり日本人には「詫びさび」的な余白や余韻を大事にする精神があるのだなと改めて思いました。

スッキリしない余韻が悪いわけではもちろんありません。『パラサイト』のようにはっきりと終息させてしまうことは、ジェットコースターのようにスッキリと着地して戻ってこられる一方で、エンターテイメント性の方が前面に来てしまうために、社会問題の提起という側面ではどうしても弱まりかねないと思います。

それに対して『新聞記者』の方は、特に“メディア”というものについて深く考えさせられるという点で、非常に社会性が強い作品だと言えます。

 

①も②も、どちらが良いとか悪いとかいうことではもちろんありません。映画として伝えたいことを伝えることに成功しているか、どのように楽しんでほしいのか、ということが作り手と観客とで大きなギャップがなければそれでよいのだと思います。あとは見た人の好き好きの問題です。

僕自身としては、ストーリーを一度最後まで知ったうえで、もう一度見てみたいなとは思いました(映画館ではたぶん見ないけれど)。

 

 

最後に、この映画を見て思ったこと、そこから転じて最近考えていることを書いて締めたいと思います。

 

何よりも思ったのは、メディアというものの強さと怖さ

我々が手にしている、手にすることのできる情報というのは、本当に一部でしかありません。それはすべて、「メディア」というものがその名の通り情報媒体として、取捨選択をして我々に届けているからです。

そしてそれがさらに、映画の中に出てきたように、「不都合な真実」を捻じ曲げて「都合の良い嘘」に作り替えているのだとしていたら、もはや我々は何も信じることができなくなります。

こういう状況下に置かれている我々に必要なのは、いったい何なのでしょうか。

メディアリテラシーという言葉がありますが、それは一部としては役に立ったとしても、それだけでは十分ではないでしょう。表に出てきている情報が「都合が良い」と選ばれたものだけである可能性は多くあります。それは「真実」ではないけれど、決して「嘘」でもないのです。だから「何が正しいかを見極めろ」と言われても、正直無理なのです。

そう考えると、何が必要なのか正直分かりません。

 

近頃は、嫌というほどテレビでもネットでも「コロナ」の話題一色です。そしてメディアは我々を煽るような情報ばかりを流します。

それはメディアというものの特性上致し方ない部分もあります。とくにテレビは基本的に「現在の(目に見えている)弱者」の見方をしないと完全に叩かれてしまうので、仮にも「コロナは大したウイルスじゃないですよ、心配しすぎです」なんてことを言おうものなら、たちまちその番組は終了に追い込まれるでしょう。

実際に死者も出ているので、そうとは言えないと思いますが、僕がどうもスッキリしないというか辟易としてしまうのは、そういう情報に全く希望が見えないということなのです。「オリンピックをいつまでに延期」などというのは、予定であり希望にはなりません。

我々が知りたいのは、「この先どういう形でこの問題を着地させたいのか」ということ。人は「漠然とした不安」に一番堪えられないのだそうです(ある心理学者による)。そういえば、芥川龍之介も「ぼんやりした不安」という言葉を残して自殺してしまいましたよね…。

今、感染爆発を起こさないようにするということは分かるのですが、かといって日本からコロナウイルスが無くなるとは考えられません。2週間自粛した後、我々はどうなるのでしょうか。自粛延期とかでもされようなら、暴動が起きてもおかしくありません。現に中小企業や個人経営の飲食、観光業などは危機に瀕しているのです。

毎日のように「今日の感染者は」「今日の死者は」「最大です」「クラスター発生」「外出しないでください」「首都封鎖になりかねない」と聞かされれば、「もう聞いてらんねーよ!」って自暴自棄になるのも無理はありません。

 

我々がメディアに操作されるのは、もう仕方のないことだと思います。だとすれば、メディアの役割として、ただ単に我々の危機感を煽るだけではなく、我々が少しでもいいから希望を持てるような情報を提供することも求められるのではないでしょうか。メディアは「希望を与える存在」であってほしいと、強く願います。

そういう意味では逆に我々は、色々なメディアから情報を集める力が大事だと思います。そしてそれらを精査することのできる冷静さと賢さです。

 

僕はクリスチャンではありませんが、僕の好きな言葉に「ニーバーの祈り」と呼ばれるものがあるので紹介します。第二次世界大戦中に、アメリカの神学者・ニーバーが兵士らに対して説教をした時の言葉の一説です。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

                  Reinhold Niebuhr

  (訳)

神よ、

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

今の僕たちに必要なのは、実にこの「勇気」「冷静さ」「知恵」の三つなのかもしれません。

 

なんだか『新聞記者』の話からだいぶ逸れてしまいましたが、色々考えさせらる映画であることは間違いなので、一見の価値はありです!それでは。