雑食系 国語教師の【Pillow Book】

春はあけぼの。国語とか教育とか、音楽とかメディアとか、旅とか社会とか人間とか。日本。

大切なお知らせ

こちらでブログを書くのはとてもお久しぶりになってしまいました。

 

ちょうど2年くらい前に「公文を離れます!」とか言って、皆を驚かせたことがあったような気がします。

 

 

 

 

 

今日は大切なお知らせです。

 

私は、2001年から6年間通い、

2011年から11年間務めた母校を、

今月いっぱいで退職することに致しました。

 

 

退職に至った経緯を書こうかと思ったのですが、

元を質すとどこまでも深まってしまいそうなので、

とりあえず今日のところは、簡単に理由と今後のことを書きます。

 

まず理由ですが、一番大きいのは、

「自分の生きたい生き方と教師の働き方が合わなくなった」ことです。

 

「生きたい生き方ってなんなん」という疑問はあると思いますが、

それはまた今後、一つ一つ開示していきたいと思います。

 

今後については、上に述べたように、

退職理由は決して「公文が嫌だから」ということではなく、

そもそもの「現在の日本の教師の働き方」との不一致が理由なので、

(しばらくは)教師をするつもりはありません。

 

※(しばらくは)というのは、未来は分からないという意味で付けただけです。

 

4月からは少しエネルギーチャージをして、

じっくりと考えていきたいと思います。

 

 

 

 

今日、終業式で離任者の発表があり、

生徒に話をし、先生方に挨拶をして回ったところで、

今回はなかなか深い話ができませんが、

追々、くわしくお伝えしていきます。

 

とにもかくにも、

今まで学園で私に関わって下さったすべての皆さんに、

心から感謝を申し上げます。

 

ありがとうございました!!

ご無沙汰の近況報告

前回の記事から2か月以上が経ってしまいました…。

三日坊主ならぬ三月坊主とはこのことか、という感じです。

 

まぁ自分のために書いているものなので、謝るものでもないですが、もし楽しみにしてくれていた人がいたら申し訳ないなぁと思います。

 

まぁなぜ間が空いてしまったかという話を簡単にすると、6月辺りで少しだけ病んでました。

 

いや、全然心配するほどではないんですけど、ほんのちょっとだけ、病むっていうか、無気力になってたって方が正しいかな。

 

やはり3か月間ずっと家で自粛していて、まぁそれは多くの人同じだと思うんですが、やることがない、戻るところがない、そしていくら知識を手に入れ考えを巡らせても、何もアウトプットができない!というのはこれほど辛いものかというのを実感しました。

 

家に居なきゃいけないってことより、どんどん頭でっかちになっていく感覚がつらかったですね。

 

だったらそれこそブログ書いてアウトプットしろよって感じですが、見てくれているのは知っていても、やはり特にレスポンスがあるわけでもなく、何となく虚空に消えていく感じがその時はきつかったんですねぇ。

 

あとは、頼みの綱にしていた人たちが、学校再開してカウンターを食らうがごとく猛烈に忙しくなっちゃったのもありますね(その人たちのせいではもちろんありません)。

 

だから、ネタがないわけではなかったんだけど、どうしても気が進まなかった、というのが正直なところです。

 

 

そういった時間を経て今再度書き始めたのは、少し「アウトプット」できる場ができて、気持ち的にもかなり前向きになれているからです。

 

興味ないかもしれないですが、一応近況報告をします。
(なので今回はかなり内輪というか、私的な内容です)

 

 

【計画していたこと】

 

まずは、カナダ。

 

自分の計画では、4月からカナダに行き、公立高校でクラスアシスタントをしようと思っていました。

 

もちろん4月には行けず、現状はというと、10月から活動ができるかどうかを待っている状況です。

 

そういえば言っていなかったですが、こんな活動です。

 

www.ibunka-koryu.net

 

この活動にはワーホリビザが必要で、自分のワーホリビザの期限は9月30日だったのですが、コロナの影響で使えなかった場合は、3か月の期限延長を2度までできるという、最高な国・カナダの粋な計らいで、なんとか首の皮がつながりました。

 

もちろん世界的にもコロナの再流行が見られ、カナダもその傾向のようですが、日本(東京)は少し収まりつつある(ピークは越えた?)という現状や、カナダの高校が9月から対面授業を再開するとの知らせが入っているので、期待度30%くらいで、行けたらいいなくらいの思いで待ってみようと思います(なので、行くとしたら割と突然行くことになると思います)。

 

もし10月がダメなら…1月からカナダorNZで、同じような活動ができるのを最後の頼みとして残しておくことになると思います(NZはワーホリビザがいらない&コロナ対策が素晴らしいので、何とかいけないかなぁと祈っています)

 

 

次に、ピースボート

 

こちらに関しては、非常に楽しみにはしていたし、12月からのクルーズはまだ中止と決まったわけではないけれど、一度リセットすることにしました。

 

理由はいくつかありますが、決定打は「思ったような船上での交流活動ができそうにない」ということ。

 

7月初頭に、公式HPに「安心安全なクルーズにするための感染防止対策」的な案内があがりました。とにかく船でゆっくりして色んな所に行きたいという人には、安心安全だと思いますが、元々何処かへ行くこと以上に船上での交流を目的としていた僕にとって、「ソーシャルディスタンスを保ち」とか「常にマスクの着用を」とかは、正直厳しかった(仕方ないとはわかっているけど)。

 

それに、ピースボートとはいえ、高齢の方が6~7割を占めているため、やはり自分がそこで何か方々の命に関与してしまったらと思うと、簡単な気持ちで参加はできないなと思いました。

 

ピースボートで働いている友人のことを考えるとキャンセルするのがかなりはばかられましたが、ずっとモヤモヤしたままでいるのは僕の精神衛生上きついと思い、キャンセルすることにしました(でも友人は事情を分かってくれた。感謝。)

 

クルーズ自体はとても魅力的なものだと思うので、コロナが落ち着き、これまでとほぼ同じ活動ができる状況にまでなったら、改めて考えたいと思います。

 

 

 

【新たに始めたこと】

 

主に2つあるので、簡単にご紹介します。

 

■HatchEdu

www.hatchedu.org

 

サイトリンクのトップページに書いてある通りですが、一応引用しておきます。

 

HatchEduは、教育領域で新たな事業・プロジェクトを立ち上げたい人や、プロフェッショナルとして教育事業・プロジェクトを支援したい人のためのプログラムです。

 

勤務校の、こういうイベントやプロジェクトにすごくアンテナを張ってらっしゃる同僚の先生がご紹介してくださいました。

 

正直最初はなんだかよくわからなかったのですが、本当に何か自分がやれることに飢えていたので笑、せっかくだしと思い、オンライン説明会に参加しました。

 

そこに出てきてお話をされているのは、UWC ISAKの小林りん氏や、LITALICOの長谷川敦弥氏、Life is Tech!の水野雄介氏など、教育業界では有名な方々ばかりで、明らかに今まで自分が過ごしてきた世界では出会わなかった方々でした(それくらい世界が狭かった、とも言えますね)

 

僕の場合は、新たな事業・プロジェクトを立ち上げたいわけではなかったので、後者の「プロジェクトを支援」するという形で、Life is Tech!の水野氏のプロジェクトに参加することになりました(本校おなじみの教員2名も一緒に参加しています笑)

 

まだ具体的なところまでは落とし込めていないですが、教員の業務を削減したり負担を減らして、教員が定時で帰れるようなコミュニティやサービスを提供することを目指して動いています。

 

コンテンツ自体にももちろん興味はありますが、それ以上に、教育ベンチャー代表取締役の方や、元大手コンサルだったメンターの方と一緒にプロジェクトを動かしているというのが、今までにない経験でとても刺激的だし、教員をしていては気づけない視点や思考法などにも触れることができているので、それだけで参加した価値があったなと思っています。

(CEOの方に、「お、先生こんちは~」って気軽に言ってもらえるのは、なんかもうすごい感覚です笑。そしてCEOの方はみなさん案外親しげw)

 

正式には9月末までということになっていますが、このペースだと絶対に終わらないし、水野さんとかも終わらせる気がなさそうなので笑、このままできるところまで活動していきたいと思います。

 

2期もあるかもしれないということです。参加者全体には学校教員ではない一般の社会人や大学生などで、教育事業を立ち上げたい・教育事業に関わりたいという人もかなりたくさんいるので、教育に興味がある方は2期に参加してみてはどうでしょうか?

とても刺激をもらえると思います(質問があれば聞いてください)

 

■POOLO(ポーロ)

poolo.tabippo.net

 

旅をテーマにしたベンチャー企業TABIPPOが主催する"大人の学校"。
簡単に言うと、オンラインスクールのようなものです。

 

「ガチでこの後何しよー」って思って、日々FacebookTwitterInstagramを行ったり来たりしていた時、Facebookの広告に突然この「POOLO」の広告が出てきました。

 

元々旅が好きだったこと、色んな人と出会い話がしたいと思っていたこと、グローバル人材って何だろうと教員の時からずっと考えていたこと、そして何か自分から動きたいと思っていた僕に「共創」というテーマがピッタリだったこと、などが驚くほど自分にハマっていたので、直感で説明会に参加しました。

 

説明会では、話を聞くのみならず、参加者の人との交流タイムもあって、日本全国の"旅好き"の人たちと話ができ、純粋に楽しめました。
こんな感じで1年間やっていけたら楽しいだろうなぁと思い、エントリーシートを必死で書き(最低1000字くらいのところ、5000字くらい書いた笑)、合格をもらって参加することになりました(そこまで必要はなかった説)

 

8月1日にキックオフしたのですが、8月は怒涛の1か月でした。

 

僕は今まで、新しいコミュニティでは基本初めは様子を見るというタイプだったのですが、今回に関しては、活動したい熱とか、オンライン開催とか、年や経験で得た多少の面の厚さとか、多くが年下とか、純粋に僕が圧倒的に暇とか、まぁとにかくいろんな理由で、(無意識に)ガンガン参加していったんですね。


そこで、ミッションの1つに「1on1(1対1の面談みたいな)」をするというのがあったのですが、気づいたら1か月で28人の人とオンライン&オフラインで平均2時間くらい1対1で話をしていました(8月中旬はさすがに人疲れしたw)

 

また他にも、サークル/部活動のようなものもあって、こちらはまだガンガン動いているわけではありませんが、頑張って良いものにしていきたいなというコミュニティもあって、これからがとても楽しみです。

 

何よりも、参加している人(=旅好きの人?)のマインドが基本ポジティブというか、すごく多様性があって受け入れる素地もあり、人の良いところを見つけて言語化するのが上手いので、ややもするとネガ思考になりがちな僕にはいいカンフル剤になりそうです笑

 

色んなバックグラウンドや職業・ポジションの人がいて、その話を聞くだけでも面白いし、勉強になります。それに話すことで、自分のことが分かっていくというか、ある種自己分析的なこともできるので有意義です。

 

 

8月がっつり活動したおかげで、コミュニティの良いところだけでなく、課題も見えてきたので、参加者の1人として、ぜひ良いコミュニティにしていきたいなと思っているところです(やっぱコミュニティとか好きなんだなと実感できただけでも、もう参加してよかったなと思っている)

 

また、このコミュニティはただ交流するだけじゃなく、自分が学んでこなかったキャリアデザインやビジネスについても、最先端で活動されている方の話が色々聞けて学べるので、自分にとっては願ったりかなったりな環境だと今は思っています。

 

そして、ここでもベンチャーのCEOの人(TABIPPOの代表の清水直哉さん)とお話しすることができたので、なんか自分をとりまく世界がここ2か月ほどで変わりまくっている感が否めませんw
今のところ自分が率先して起業したいという願望はありませんが(教師はやりたいので)、そういう選択肢もあるんだ、というところには興味を持ち始めています。

 

僕は2期生ですが、おそらく3期もあると思います。3割程度が大学生ですが、すごくアクティブで色々なことを考えている子が多い印象なので、旅が好きって人は来年ぜひ参加してみてはどうでしょうか?(来年はオンラインかオフラインか分からないけど、僕の推測だと、ハイブリッドにするんじゃないかな)

 

余談ですが、実は教え子が同期にいましたwww
僕が教員1年目の時、彼は高3で週2の授業を教えていただけだったのですが、僕はばっちり覚えていました。でも彼は、何も覚えていませんでしたwww(話をしても思い出せないほどに笑。先生ってそんなもんだよな笑。)

でもまぁそっちの方が、同じ目線で活動できるので、こういうのもアリかなって思っているところです(普通にタメ口で話しています笑)

 

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こんな感じで、取り留めもない近況報告ではありますが、とにかく私はとても前向きに生きておりますので、それだけでも知っておいてもらえればと思います。

 

状況が状況ですが、時間はたっぷりあるので、コロナには十分に気を付けながらも、また色々な人に会いたいなと思っています。

 

20歳になった人は、ぜひお酒も…!

 

 

それでは~。

 

 

【随想】余裕のない日本、変えられない日本。

久しぶりになってしまいました。

書きたいことがないわけではなかったのですが、何となく自分の中で点と点がうまくつながらずずーっと「んーどうしようかなぁ」とか思っていたら随分経ってしまったというところです。

ずっとうーんと唸っていてもしょうがないので、一旦打破しようと思い、違う内容を書いてみようと思います。まぁ読者の方からすれば、何を書こうとしていたのか分からないので何が違うのかもわからないと思いますが(相変わらず冗長ですみません)

 

今回はちょっと今までになく、愚痴に近い感じになってしまうかもしれませんがお許しください。基本的に僕は日本という国が好きなので日本から恒常的に出て行こうという気はないのですが、それでも当然僕の性に合わないところはあるわけなので(しかも些細ではないポイントで)、それについて書こうと思います。

 

今日(6/20)テレ朝で放送していた「池上彰のニュースそうだったのか!!」という番組を見ていて、自分がずっと思っていたことと重なる部分がありまして。

 

今回のコロナ禍において、日本は”IT化”が非常に遅れているということが明るみに出たのはご存知の通りだと思います。例えば、特別定額給付金。「オンライン申請」をあれだけ勧めておきながら、ふたを開けてみればオンラインの方が郵送より遅いという驚くべき事実。あるいはリモートワーク率の圧倒的低さ。それはいまだに”印鑑”というアナログの象徴のようなものの使用が不可欠であることや、リモートワークをするための環境を整っていないといった根本的な問題も影響しているようです。さらにはそういった物理的な問題にとどまらず、いまだに「会社に行ってこそ、労働である」という何か目的と手段をはき違えたような精神論まで、多くの場所で根強く残っていると聞きます。もしかしたらそちらの方が、物理的問題よりよほど深刻かもしれません。

 

しかし、驚いたのはそこではありません。まぁそこは残念ながらなんとなく想像がついたからです。

 

そのテレビ番組では、2013年に、第2次安倍政権がある戦略を「アベノミクス」の第3の矢として打ち出していたことが振り返られました。それが、「世界最先端IT国家創造宣言」と呼ばれるものです。こちらに関する記事をweb上で見つけたので、引用してみます。

 

2020年までの政府のIT(情報技術)政策の指針となる新戦略が閣議決定された。企業などが保有する膨大なデータ「ビッグデータ」の活用や公共データの民間開放、農業や医療分野へのIT導入など、最新トレンドがそっくり盛り込まれた。(中略)

20年までに「世界最高水準のIT利活用社会を実現する」ことを目標にした。安倍晋三首相の経済政策であるアベノミクスの「第3の矢」にあたる成長戦略に組み込まれ、安倍首相も「ITは成長戦略のコアであり、世界の後じんを拝してはならない」と意気込む。 (以下省略)

 日本経済新聞(2013/06/27)

 

これを「どーん!」って紹介して皮肉っちゃうニヒルなところが池上さんの好きなところなんですけど、まさかって感じですよね。

全然進んでねぇじゃんっていうww 今年2020年ですよ、あと半年ほどで終わりますよ、っていうねww

 

失礼、取り乱しました。

別に僕は政権批判をしたいわけではないんです。

 

この事実を知ったときに、「あ、やっぱり日本って、何をするにも、何を変えるにも本当に時間がかかるし、難しい国なんだ」ということを実感したんです。

その問題を論じる上で、池上氏が根拠の一つに挙げていたのが、「変更には大変な手間がかかり、時間がない」ということでした。結局日本においては、これに尽きるなと思っているんです。

 

話は変わりますが、以前現代文の授業で内山節氏の『余暇について』という文章を扱ったことを思い出しました。具体的な文章までは忘れてしまいましたが、要は「日本人は余暇というものを、時間の消費としか考えられないほど余裕がない。日本は、その余裕がないという状態が社会を前に推し進めてしまっている不気味な社会だ。」的な感じではなかったかと思います。

 

確かに日本人は、世界的に見て、圧倒的に労働時間が長いのは有名な話です。なんなら定時に変えることを”悪いこと”くらいに考える人もいまだにいるくらいです。残業も当たり前で、平日ともなれば9時、10時まで働いている人もざらにいます。有給休暇を取ることも容易でもありません(しかもそれが労働基準法に反していることすら知られていないという事実。有給休暇は理由なしに認められなければなりません。大学生の皆さんは働く前に知っておくべきですよ。)

もちろん日本人の労働の生産性が低いという問題もあるとは思うのですが、僕はそれと同じ程度で、「日本人は、たくさん働くこと=空いている時間を埋めることが正義だ」と思っている節があるのではないかと思います。

 

これは先ほどの「余暇について」にも見られる話なのですが、日本人の多くは、旅行をしようとなった時に、”ビーチで寝そべる”みたいな「何もしない時間」というのが無駄に思えて耐えられないのだそうです。正しくパッケージツアーが日本人に好まれるのは、例えば4日間の旅行期間であれば、その4日間に余白がないくらいみっちりと予定が押し込まれていて、分単位で行動が決められていることを是とする感性を持っているからだと思います。仮に”自由行動”という欄があったとしても、「じゃあ、ここに来たならあそこにはいかないとね!」的な感じで、予定を詰め込んでしまうんだろうと思います。(別に侮っているわけじゃありません、僕も気を付けないとそうしてしまう質なので…)

 

結局のところそういう人というのは、空白の時間があったときに、何かをしないと何か時間を無駄にしている感覚があるのだと思います。この根本には、「何かをすることが価値であり、何もしないのは無価値だ」という価値観によるものでしょう。そういう感覚は個人レベルから社会・企業・行政レベルにまで及んでいるのだろうと思います(というか、社会は個人が作っているんだから、そうなっていくのは至極当然ですね)

 

例えば、個々人が定時内に終わらせることのできる仕事のキャパシティを100としたとき、おそらく理想的な状態は個々人の平均値が80~90くらいであると思います。いや、もしかしたらもっと少なくあるべきかもしれません(だってそうしないと、有給休暇なんて制度絶対に成り立たないですからね。1人休んだ分をカバーする余裕がないと無理です)。

しかし、日本における平均値はおそらく100を超えています。それは残業時間の長さや休日出勤の数、有給休暇の取得率等を見れば明らかでしょう。つまり、日本の労働者はほとんどが”余裕がない”状態で日々の業務をこなしているということです。いわゆる自転車操業というやつです。

 

一方、何かを変えていくために”余裕”は絶対的に必要なものです。

まず何かを変えるには非常に労力がかかるためです。何かを変える時には、変わった後の状況をシミュレーションする必要があります。特に日本は”慎重”な国なので、シミュレーションには緻密さが求められます。

また、何かを変える時には、”過渡期”が必要です。AからBというシステムに移行する時、いきなり「はい、明日からAはすっぱりやめて、Bにします」とはなかなかいきません。大体は、「AとBが併用される期間」というのが存在します。まさに今回の「定額特別給付金」のような状況ですね。AとBが併用されれば、当然AにもBにも対応しなければなりません。Aだけだった時に余裕がなければ、Bに対応できないのは当然ですよね。それに、仮に「AからB」にスパッと変えられる状況があったとしても、人間は慣れるのも労力が必要だから、結局はAの時に余裕がないとBへの移行は相当困難であるだろうと思われます。

 

今日は教育の話には深入りしませんが、結局教育現場も同じです。

今回のコロナ禍によって、教育現場はもはや変更を強いられる状況にありました。しかし残念ながら、今までの膨大な業務はほとんどが減ることなく、そしてさらに「消毒」や「分散登校の対応」といったラクとは言えない業務が付加されたことで、教員はよりいっそう疲弊した状態になり、結局は”おおむね今まで通りで”という選択をせざるを得ない状況にあるのだと思います。

となれば、結局のところ、ピンチはチャンスであったはずでも、鉄を熱いうちに打てずに、元の形に(あるいは元の形の"強化"版に)戻ってしまうんだろうなと、割と確信を持ちつつ案じているのが今日この頃です。

 

これに関しては、もはや僕個人の力ではどうにもならないというか、解決策も思い浮かばないというか、割とお手上げな状態です。でもそうなると、何も変えていけないという残念なところに着地してしまい、勝手に悶々としています。

 

もし自分の代にそれが難しいのだとすれば、せめて自分の子供くらいの世代に関しては、そういう”余裕のなさ”みたいなものから脱却できるようになってほしいなとは思うんですが、学校や学習の本質をいうものをまったく考えずに、子供たちを無理に学校に登校させているところを見ると、「これって、結局、出勤することが労働だ」というあの残念な旧態依然理論と一緒じゃないかと思って萎えるんですよね。

 

完全に余談ですけど、僕は「自己有用感」という言葉があまり好きではないんですよね。それは「有用である」つまり「何かの役に立っている」というのが、まるで「何かを社会のためになることをしないといけない」ということを強いているかのように感じるからです。いやこれは捉え方の問題なので、別に、プーさんみたいに「何もしていないをしてるんだよ」精神で、それに何らかの”有用感”を抱けているのならいいのですが、どうも「何もしていないやつは、社会の役立たず」のように感じてしまうのは、もはや僕自身が「何もしないことは無価値」という国民病に冒されているからなんですかねぇ。

 

まぁたぶんこんなことを感じてしまっているのは、結局のところ、今の自分が大して社会の役に立っていないという感覚があるからなんでしょうね。(まぁ実際立ってないんですけどね。ひたすら家にいるだけなので)この休暇期間は未来への投資だ!とか都合よく考えるようにしていますけど、割と限界に近付いているのかもしれません。ちょっと第2ステップに進むことをそろそろ考えたいと思います。

 

なんか取り留めもないし、しまりが悪くてすみません。「もうちょっと世の中に余裕が生まれたらいいのに」という反実仮想的な願望を吐き出してみました。

 

たまにはダーク系も許してください。それでは~。

 

【随想】アメリカの人種差別問題から思うこと

先日アメリカで起こった事件は、非常にセンセーショナルなものでした。

まだ自分自身が詳しく呑み込めていないので細部に触れることは避けますが、黒人に対する白人の行動(特に警官がらみが多いイメージ)は言語道断なものだと思います。

それに対して、SNS等で様々な有名人、あるいは僕の身近な人がある種の抗議的アクションを起こしていますね。特にアメリカなどに由来がある人が多いように見受けられます。

 

今回はそれを見て最近思っていること、伝えたい事を、ちょっと書いてみようと思います。思いつきなので、あまり内容が練られていないのですが、鉄は熱いうちに打ちたいと思ったので。

ちなみに、上記のような行動を否定するわけではないこと、先に言っておきます。

 

確かに、アメリカにおける人種差別の問題は深刻であると感じます。さらに、その抗議デモに対して、白人代表かのごとき某大統領が武力行使をするというのは、タダ事ではありません。さらなる怒り、そしてそれに共感する人々のムーブメントによって、より一層過熱していく恐れがあります。

 

ただ世の中には、人種差別のみならず「差別」と呼ばれるものが、残念ながら五万とあります。宗教的差別、文化的差別、性差別、セクシャルマイノリティ差別etc. そして、差別になりうるものとして、地域格差、経済格差、権力格差、学歴格差、教育格差などの「格差」も予備軍として常に背後に存在しています。

 

ここで今一度考えてほしいことは、これらの問題の一部、あるいは大部分は紛れもなく日本にも存在しているということです。つまり、「差別」の問題というのは、全く以て、ヨソの国の問題ではないということです。

 

語弊を恐れず言うと、僕が厄介だと感じているのは、日本における「差別」の問題というのはあまり顕在化しにくいということです。

先ほどのアメリカにおける人種差別の問題は実際に人命が奪われている(それに映像として出回ってすらいる)のもあるし、一目見て違いが認識できるような明確性を持っているので、良くも悪くも大きな問題として取り上げられやすいわけです。有名人も加担するからより一層です。

でも日本における差別や格差の問題というのは、”表立って”人命が奪われているかが分かりづらく、非常に内面的な問題も絡んでいるうえに、日本人の国民性からして声を上げにくいため、なかなか問題として取り上げられないのです。

それではそれらは取るに足らない問題なのかと言えば、全くそんなはずはありませんよね。生まれた場所や家、性やジェンダーセクシャリティなどというものは、人種と同じで自らが選んだものではなく、生まれながらに持ったものです。しかしそれらがたまたま”普通と違う””普通以下である”というだけで、悔しいという言葉だけでは言い表せないほどの思いを抱いている人が世の中にはたくさんいて、それで自分を責め、苦しんでいます。さらにはそれによって自ら命を絶つ選択をしてしまう人も、残念ながらいます。

 

この機会だからせっかくなら言いたいと思ったのは、もし今回の件で少しでもアメリカの人種差別の問題に関心を持ったのであれば、「それでは、日本にはどんな差別や格差があるのか」ということをぜひ知ってほしいということです。

 

人間による差別的な行動というのは、人間が精神を失わない限り無くなることはない、というのが残酷な事実だと思います。

差別的な行動とは、自分(または自分たち)との差異を根拠に、相手の地位を低める行為ですから、これには本当に大から小まで幅があります。今回のように直接命にかかわる暴力行動は典型的だと感じられるでしょうが、いじめというのもある種の差別行為であるし、ちょっとしたからかいというのも広義ではそう言えます。

そして人間は、もちろん自分も含めて、時としてこのような行為をしてしまうものだと思います。自覚的にしている場合もあれば、無意識にしている場合すらあるわけです。「自覚」の方はもしかしたらなくしていけるのかもしれないけれど、「無意識」の方は「無意識」だからやめようがないんです。厄介ですね。

だからといって、じゃあもう仕方ないじゃん、となってはダメで、もし仮に自分がそういう言動を無意識にしてしまって、その時には気づけなかったとしても、後になって「あ、あれってもしかして」って気づけるかどうかが大事だと思うんです。その気づきが重なっていくことで自分の言動がメタ認知(客観視)されて、少しずつ減っていく。その気づきを得るためには、そもそもどういうものが差別になりうるのかを知らなくてはならないのです。

 

以前、Official髭男dismの「異端なスター」という曲について紹介させていただきました。その時はかなり軽快な気持ちで書いたのですが、でもやはり、あの曲に描かれているような「個性消失」の問題は、日本において根深いと思うのです。

人種や宗教といった顕在的な違いが少ないからでしょうか、日本においては内面的、あるいは内面の表象としての言動などの「個性」が標的になることが、特に子供の時に多い。というか、子供に多いのではなく、おそらく大人が(親や先生が)そういうことを言うから子供もそういうマインドになっていくんですよね。「あの子、ちょっと変ね」とか「なんで男の子なのに女の子っぽいのかしら」とか。あるいは、自分の子供に対して「そんなことすると変な子だと思われるからやめなさい」とかも、間接的に「普通と変」という違いを生み出しますよね。

それが子供の中で伝染していけば「いじめ」という問題に発展してしまう。みんないじめられたくないから、「個性」というものを自ら消していこうとするし、そこで育った大人がまた親になるから、この負の連鎖は留まることを知らないのです。

結局は、大人のせいだということは、肝に銘じなければいけませんね。

 

一番身近にいる家族や友人ですら、自分とは全く別の人間です。全ての人間は「同じ」であることは原理的にあり得ません。そして「同じになる」ことも絶対にできません。だから全ての人を較べればそこには必ず何らかの「違い=差」は生じてしまうのです。

だけど、機会や扱いなら平等であるべきだし、難しくてもそこに近づけていかなければならないと思うのです。

小学生の時、多くの人が「私と小鳥とすずと」という金子みすゞさんの詩を学んだことと思います。「みんな違って、みんないい」ってやつですね。この詩に表されたメッセージをいかに我々大人が体現できるかが大事なのではないでしょうか。とても難しいんですけどね…。

 

これを書いている自分自身も、書きながら「気を付けなければ」と身に染みているところは多々あります。だから偉そうにこんなこと言うべきでないのかもしれませんが、自分が身に染みているからこそ伝えたいと思いました。

 

自分が無意識に差別的な言動をしているかもしれない可能性を自覚しましょう。

そしてそれを少しでも減らしていくために、どんなことが差別になりうるのか、どんな差別や格差が実際にあるのか、ぜひ自ら知っていきましょう。

まずは日本の、身近な問題から。

 

尊大なことを、取り留めもなく書いて申し訳ありません。

一緒に考えていければと思います。それでは!

 

 

※以前書いた「異端なスター」のブログ。まだの人はぜひ!

 

mrmr130.hatenablog.com

 

 

 

【書籍紹介】『池上彰の教養のススメ』

前回までは自己満ヒゲダン企画でした。やり切った感があり個人的には満足です!

(3回目は多くの方が見て下さいました。ありがとうございました)

 

今回は、初めて書籍紹介をしてみます。

国語教師なので書籍紹介とか一番にやりそうでは?とお思いでしょうが、それは国語教師に対するステレオタイプです。

というのも私、全然読書家じゃない笑。無性に読みたいなーと思う時もあれど、全く活字見たくないです期も割と来るので、たぶん世の皆さんが思うような「国語の先生=本が好き」には全然当てはまりません。

あとは、面白い本だなとは思っても、そこから「ぜひ読んでほしい!」というところまではなかなかいかないんですよね。これは割と、映画でもドラマでも音楽でもそうかもしれない。そもそもたぶん人から勧められることがあまり好きではないというのもあると思います。自分の直感で好きなものを見つけたい。あと、直接勧められるとなんか読まなきゃ(見なきゃ、聞かなきゃ)って気になって、実際読んで「んー」って感じだと、なんてコメントしていいか分からなかったりするのがイヤなのもありますな。

 

という僕ですら今日は勧めるのだから、本当に良本だということですよ!(なんて独善的なんだ…)

ブログ等の良きところは、勝手に紹介だけして、あとどうするかは皆さんにお任せ!ってできるとこですね。別に読まなくても全然結構、でも1人でも「お、じゃあ読んでみようか」と思わせることができたら、それで十分と思うわけであります。

 

今日紹介する本は、ぜひ!大学1、2年生に読んでもらいたい。でも3、4年生、あるいはそれ以上の大人でも、きっと発見がある本だと思います。

 

タイトルは、

池上彰の教養のススメ』

 

なんだ池上彰かよ、ずいぶん俗だなぁ…なんて思うなかれ。まぁもう少し読んでください。

 

こちらの本は、2011年、東京工業大学リベラルアーツセンター(現リベラルアーツ研究教育院)という教育機関が発足し、2012年に池上氏が教授として着任した際の、教授陣による対談や、池上氏と他の教授との対話型講義などが収録されています。理系単科の東工大リベラルアーツ教育のための機関を発足しているということがポイントですよね。東工大にも哲学や歴史学政治学の先生がいるんだというのは少し意外。なぜでしょうね…?

educ.titech.ac.jp

 

本書は以下のような項目立てとなっています。

 

1)教養とはなにか――教養について知っておくべき12の意味

2)日本に教養を取り戻す――日本が弱くなったのは、「教養」が足りないからです。

3)社会的合意形成――哲学の力で公共事業の問題も解決できるのです。

4)無宗教国ニッポンの宗教――日本の会社の神さま仏さまとオウム事件と靖國問題と

5)ナマコと人間の生物学――人間は「ひと」である前に生きものです。

6)米国トップ大学の教養教育――アメリカの一流大学は4年間"教養まみれ"でした

 

そもそも自分がなぜこの本を読んだのかというと、古典を教える教師として、自分が正直古典を学ぶ意義みたいなのがあやふやだったからです。個人的に古典は面白い科目だとは思うけど、それこそ大学受験を終えてしまえば多くの人は使う機会がないものだし、簡潔に言えば「役に立たないモノ」というイメージは拭えない。

古典はその最たるものに入れられがちだけど、たぶん同じ宿命を背負っている他の教科も結構あるんじゃないかと思うんです。いざ「これ何のために学ぶんですか?」「将来使わくないですか?」と言われたとき、明確な答えが出せず、苦し紛れなことを言うしかないみたいなことも多少はありました。

ただ一方で、実学に偏った教育というのは危険だよなという気はなんとなくしていて、「池上さんなら、それを腑に落ちるように言語化してくれるに違いない!」と思って読んだというのが一番の理由ですね。

まぁ、期待どおりでしたよ。

 

内容言っちゃうとつまらないので詳しくは割愛しますが、読んで思ったこと、発見したこと、変化したことを羅列したいと思います(陳腐な感想を含む

 

・日本の教育の問題点が非常にクリアに説明されていると感じた(本書は高等(大学)教育が中心だが、中等教育にも十分言えることだと思う)

・理系学生が文系科目を学ぶ意義(つまり教養を学ぶ意義)が腑に落ちた。

・と同時に、文系学生が数学や科学を学ぶべき理由も分かった。

・学問と社会というのがどう繋がるのかが明確になった。

・これだけ色々と考えている大学の先生に教わりたかった。

・というか、大学時代(や大学入学前)にこの本を読んでいればもうちょっと違う大学生活だったかなと思った(学問という点で)

・だけど今から教養を手に入れていくことは十分できるとも思った

・日本の大学とアメリカの大学の目指すものが全然違うことを知るとともに、こりゃ日本の大学勝てるはずないがなという敗北感を得た。勝ち負けじゃないけど、かといって日本の大学が良いとは正直思えない。僕の出た大学も前期2年は教養課程だけど、だいぶ無駄にしたなーと少し後悔(大学の先生のせいも些かはあると思っているが←)

ダイバーシティと教養にそんな関係があったなんて…!

「単位が簡単に取れる授業が最もコスパが悪い」ということの衝撃(これ大学生注目、少し後述)

★個人的には宗教学と生物学にとても興味を持った。それはいわゆる"主専攻"ではなく、自分の主軸である「教育」というものとの結びつきという点で。一見関係性のない学問が、実は根のところでつながっていたり、本質を考えるヒントになったりするということにとても驚いた(これが正しく教養だ!と痛感)

・とにかく今の大学生(特に「なんで般教なんて取らなきゃいけないの」と思っている大学生)にはぜひ読んでもらいたいと思った! →紹介するに至る

 

ザーっと書いたので、だいぶ陳腐な表現が並んでいますが、特に★をつけた2つはぜひ現役大学生、というか全ての人に伝えたい。

 

「単位が簡単に取れる授業が最もコスパが悪い」というパラドックス的表現について少し話します。

大学生は、出席いらない(代返OK)、課題ないっていう授業をいかに探すかということに躍起になりますよね。否定しているわけではないです、僕もそうでしたから。

東大には「逆評定」なる、当時は「神雑誌」とすら思っていたモノがあるのですが、そこには、大半の教授および授業に対する生徒からの評価が"アンオフィシャルに"書かれておりましてね。その評価も数字とかじゃなくて「仏」とか「鬼」とか中には「神」とか「殺戮者」とかもいて、勉強ばかりしてきた成り上がり大学生には刺激的で面白かったのですよ。それで入学早々にその存在を知ると「おー、この授業はカンタンに単位が取れるのか!自然科学興味ないからこれで楽に単位取ろっ♪」っていう短絡的思考に陥るわけです。大してオリエンテーションにも行かずに。

ただ、今考えると、「自分は何のために大金を払って大学に行ったんだろうか」と思うわけですね。日本の大学教育費は世界でも相当高い方ですよ。ただ「○○大卒」というブランドを得るために最低200万以上(私立なら300万以上!)を払うというのも、まぁ今の社会では無意味とまでは言いませんが、でもそれだけじゃ勿体ないのは言うまでもありません。

 

とどのつまり、「簡単に単位が取れる授業は高コスパ!」という考えは、「大学は単位を取るためにある」という、スタンプラリー的発想によるものですよね。そこで何を学んだか、どんな力を付けたかというのはどうでもよいと。

いやこれ、大学生が悪いんだというつもりは全くありませんよ。だって社会システムがそうなっているから。多少シフトしたとはいえ未だに「○○大卒」がブランドとなる社会。それを高校教員も多くが体感してきたから、「とにかく良い大学に行け」といって詰め込みで受験勉強をさせる。そうなれば大学生くらい遊びたいよね好きなことしたいよね自由がいいよね!!ってなるのは必然です。

コロンブスの卵複雑版って感じで、どこが問題の発端かもはや分からないけど、でもどこかが変わらないと全体も変わっていかないのもまた事実なのです。社会を変えるためには、個人が変わらないと基本変わりません。社会は個人の集合体だから。独裁国家とかじゃない限りね。

それに社会が変わるには大きなエネルギーが必要なんです。9月入学が頓挫したのもそういうことですたぶん(9月入学超賛成派ではないけど、このまま形状記憶的力学がぐーんと強くなって日本の教育が改善できなかったら、いよいよ日本終わりだな、と大変危惧しております。割と大げさでなく。)

 

また脱線しちゃった。つまりですね、大金払ってるのに得られるものがとても少なかったらそれってすごくコスパ悪いでしょ?、だから、すっごい端的に言えば、せっかく高いお金払って大学行ったんだから、しっかり学ぼうよ!ということです(こう書くとすごいキレイごとっぽくてヤだわ…)

以前、「お金は投資と思って使うべき」という内容を以下のブログの後半で触れましたが、これもそれです。もちろん大学外でできる学びはたくさんあるので、そちらに精を出すのも良いことです。だけど、単位は取らなきゃいけないものなんだから、どうせ取るなら有意義で価値あるものにしようよ、と今になるととても思うのですね。つまらない授業を無理にとる必要はないけどね!多少課題が多くても、面白いなら、タメになりそうなら取ろうよ!ということです。

 

mrmr130.hatenablog.com

 

最近はコロナの影響で、大学生も出席代わりの課題が大量でなかなか大変だという話を聞きました。

お気の毒に、、とは思うものの、でもこれ現大学生にとっては良かったのでは?とも思うわけです。こんなことでもなかったら、せっかく大学に行ったのにロクに学びもしない学生はもっと多いはずですから(世の中的にね)

(本の紹介どっか行っちゃってましたが無理やり話を戻すと)

アメリカの大学は、それはもうものすごい課題量だそうです。事前に資料を大量に読まされる、授業に出ればプレゼンやらされる、終われば小論文を書かされるという具合に。それに、何をそんなにやることがあるんだと思えば、かなり”教養”というものを徹底的に叩き込まれるという。MIT(理系世界トップ)では、大学生では専門すら学ばないと。衝撃です。でもとても理にかなっていると思うんですよね(詳しくは本書参照)

僕は、このまま大学はがっつり学ぶところになっちゃえばいいのに(この言い方がすでにパラドキシカル)と思います。一方で、全く自由がないとそれはホントに気の毒すぎるから、大学入試システムも、企業の一括採用とかもぜひ合わせて変わるべきと思います。

 

話があっちこっち行って失礼しました。

池上彰の教養のススメ』

大半が対談形式なのでとても読みやすいし、「教養」というものの意義や必要性が良くわかるうえに、今まで触れる機会が少ないであろう「哲学」「宗教学」「生物学」という学問に興味を持つきっかけも与えてくれる良書だと思います!

滅多に本を勧めない僕が勧めていますよ!笑

リンク張っとくので、良かったら覗いてみてね。なんかAmazonがうまく貼れなかったから、飛んだ先からさらに飛んでください。気にしない人は中古でも良きと思いますよ(ちなみにアフィリエイトではないから安心してね)

 

www.nikkeibp.co.jp

 

次は、この本を読んで考えたことでも書いてみようかな。

 

それでは!

 

【楽曲紹介】Official髭男dism×"教育"(第3弾)

自己満企画「Official髭男dism×"教育"」第3弾!

とりあえず今回で最後にします(;o;)

ただ、今回は、僕が最高に好きな曲なので長くなりますよ!笑

 

一番好きな曲、『Pretender』かな?『I LOVE...』かな?と思ったんですが、ここ3日くらいで、「あ、これだ」って確定しましたー(激どうでもよい)

でもぜひ聞いてほしい曲なので、読んでくれると嬉しいです。 てか、読む前に聞いてほしいかもしれぬ。YouTubeのライブ動画を先に貼っつけてしまいましょう。とにかくこのLIVE映像は神です。演奏も雰囲気も。楢ちゃん(Bass)楽しそう!

そして何より、藤原さんの歌唱力、表現力が異常…。期間限定らしいのでぜひ今のうちに!

 

はい。

今日紹介したい曲はこちらです!

 

 

 

■異端なスター

www.youtube.com

 

 

2017年4月発売のミニアルバム『レポート』収録の楽曲。

ライブで定番の楽曲で、僕も上のライブ動画でドハマりしました。まぁなので、ハマったのはかなり最近なのですけど、もう堂々のTopですわ。ちなみに原曲はピアノからしっとり入るのですが、ライブver.ではブラスから入っていて、個人的にはそっちの方が好きですね。

 

まぁ好き好き言っててもういい加減うるせえので、曲についてのお話を。

 

まずタイトルですよね、『異端なスター』って、はっきり言ってこれだけでは意味が分かりません。「異端な=正統から外れた、例外的な」はまぁ良いとして、「スター」がお星様の意味なのかアイドルなんかのスターなのかが分からない。すごく失礼な話(ファンの方怒らないでw)、ちょっとおふざけの歌なのかとか想像しちゃいました。聞くまでは…。

 

で、歌詞の舞台はと言えばですね、それはそれはもう、自分にも100%身に覚えのある学生時代の話。世の中の7~8割くらいの人は共感できるのでは?と思えるような内容です。こちらの曲の一人称(主語)は「エール」を送っている人物です。だけど「僕ら」という主語が出てくるから、メロとサビで主語が変わっているのか、あるいは、エールを送っている人物も、「昔はそうだったぜ俺も」っていう目線なのか。こういう幅広い読みができるのも、歌詞の面白いところですな。

 

具体的な歌詞の内容です。今までより細かく見ちゃうよ!

 

歌詞は、”「面白く」て「見た目が良」い「人気者」”の話から始まります。まぁおそらく、クラスに1人はいるような、かっこいいのにユーモアもあるような人物でしょう。うん、いるいる(←大体運動もできる)。で、その後の歌詞で、人物の焦点が変わります。

僕らは後ろをついてまわって 照らすライトの一つとなって

それが「人生」 醜いリアルだ

 つまり、この話の主眼はいわゆる「スター」ではなく、その「スター」の後ろにくっついている、いわゆる取り巻きのような人物にあります。そんな取り巻きであることに対して「それが『人生』醜いリアル」と言ってのけるところに強い思いを感じます。

 

そしてこう続きます。

いつからか薄っぺらい友情や

寂しさ予防の恋愛が溢れかえる街で

非難の声恐れて無難な生き方貫いて

自分らしさにさえ無関心になって

「平等だ」って嘘ついた 頭を撫でられ喜んだ

なんか、もう、涙が出てきます。がこれが本当に、特に中高生には「リアル」なんだと思う。日本のような「出る杭は打たれる」文化では、目立つことは非常にリスキーです。学校くらいしか世界がない中高生にとって、そこで悪目立ちして標的になるのは字義通り死活問題です。だったら自分の意見や主張なんか殺して、周りに同調して、薄っぺらい友情に逃げたほうが安全なのです。自分らしさなんてどうでもいいと。でもそれに慣れてしまっては、誰かに認めてもらうことに重きを置きすぎた生き方しかできなくなってしまいます。そうすると自分の生きている意味は何だろう、って本気で思ってしまいます。

僕もそうでしたね、中高の時は割とずっと。別にいじめを受けてたとか、極度のコミュ障だったとか言うわけではないです。多くはないけど適度に友達はいたし、気にしすぎなければ充実はしていたと思う。それでもそう考えちゃうのが思春期というものなんじゃないかと思うんですよね。中2、高2辺りがキツかったな。

 

はい。…で、すでにサビには入ってるのですが、その後強いメッセージが放たれてゆきます。

 いい子になんてならないで!

『調子に乗って出しゃばった火をつけ回る異端なスター』

そんな汚名着せられてもいいから

どうか叫んで 歌って

何か変えたいなら どうか歌って

誰かの基準に合わせて自分を殺して生きている人にとっては、少し厳しいとも言えるメッセージにも見えると思います。実際問題、そんな簡単に変われるはずないし、無理言うなよ!と思うかもしれません。

でも、自分の人生を歩むことができないと、自己肯定感がどんどん下がってしまってそれこそ「自分の生きる意味は…?」と路頭に迷ってしまうことになるのですよね。ありがちなのは、結構小学生とかで「いい子を演じていた子」が、思春期になって息苦しさに気付いて、ガラっと崩れてしまうこと。そもそもいい子を演じているつもりもなかったから、その違和感に気づいたとき本人もきっとどうしていいか分からなくなってしまうんだと思います。

この辺、大人は本当に慎重でなければならないと思います。日本は特に規範が重視される社会だから、小学校とかでは「~であるべき」「~でなければならない」論が強くて、そこにあてはまる子は良い子、はまらない子は悪い子と見なされてしまう。最低でも親がそれとは違う軸で我が子を見てあげられるといいんだけど、親も親で「あのお母さん、子供があんなことしてるのに恥ずかしくないのかしらねぇ」と後ろ指をさされるのをひどく怖がってしまうから、結局、社会規範的な育児しかできない。そんな状況下で育てられた子の自己肯定感が下がるのは必然です。日本の子供たちの自己肯定感は先進国中最低だと言われていますが、これは非常に由々しき事態です。

 

曲からだいぶ脱線しちゃったので、戻ります。2番です。解釈は手短を心がけるとして、もう全部紹介します!笑

ねえ聞いて 空気が読めなきゃダメで

頭が良くなきゃダメで

そうやって選ばれたスター 敵わないな

僕らは後ろをついてまわって 悔し涙を隠して笑って

これが「人生」だなんて 醜いリアルだ

2番も泣けますー。特に後半の2行。取り巻きで楽しく過ごしてても、「なんで俺こんなことしてるんだろ」ってふと我に返ることあるんですよね。その時の忸怩たる思いと言ったら、察するに余りあります。2番は「『人生』だなんて」と進化していて、音程ががっと低くなってため息交じりになる感じも相まって、この「だなんて」に何か諦めの感じすら感じてしまい、もうツラい。

 

いつからか失敗ばっか重なって

自信をなくして落ち込んで 目立つことが怖くなって

尖ってるやつを馬鹿にして だけど何処か羨ましくて

鏡の前でだけ妄想に精を出して

あーもう分かるわ笑。何でしょう、この痒いところをすべて掻いてくれる表現の的確さ!

自分を出したいけど怖い、なんかやってみたけど失敗した、また怖くなった、なんだよあいつは目立ちやがって、でもなー自分を出せるのはうらやましいや…ってな。まぁ僕は鏡の前でなんかやってた覚えはないけど、でも一人でいる時とか、本当に自分を許せる友達と一緒にいる時だけ見せる自分って誰にでもありますよね。でもそういう顔を見せられる場があるならば、それはそれでいいと僕は思うんです。場があるならば…。

 

「幸福だ」って意地張った 悲しくて1人泣いていた

そんな夜から逃げないで

『愛情求めさまよった天真爛漫なディザスター』

そんな自分が好きなら胸張っていいから どうか歌って

君ならできるから どうか歌って

ちょっと1番とエールの方向性が違う感じがしませんか?特に「そんな夜から逃げないで」のところ。「自分を前に出していこうよ」というエールの中にも、「でも、つらくてみじめな自分から逃げちゃだめだ」と、ちゃんと自分に向き合うことを勧めているわけです。

深いですね。確かに「このままの自分じゃダメだ!」と思って闇雲にイメチェン図ろうとしたりすると、結局またどこかで不具合を感じてこじらせて、元の木阿弥と化してしまうものです。だから、自分はホントは何を求めているのかには、しっかりと対峙しなければならない。酷だけど、そうしないと、また失敗することになるんです。

『天真爛漫なディザスター』はなかなか独特であり、意味が特定できない表現だと思います。ディザスターは"disaster=災害"ですよね。天真爛漫な災害?!って感じですが、何かこれは「こじらせ系女子」みたいなイメージが勝手に湧きました。認められたい、愛されたいという思いから、なんか天真爛漫にふるまってみるんだけど、最終的にこじらせちゃう、みたいな…。ここはどう考えるか色んな人に聞いてみたいところ。

まぁそれはさておき、「愛されたい」と思うのは真っ当な感情だから、そんな自分をダメだと思わないで、胸を張ってよ、というメッセージだと受け止めました。

 

その後は、繰り返しになるので、最後のフレーズだけ紹介します。

どうか叫んで歌って

何か変えたいなら どうか歌って

愛を持って「声」と「言葉」で聞かせてよ

怖がらずに どうか 叫んで 歌って

この曲のテーマって、実は「」だと思うんですよね。それも、能動的な「愛」です。2番サビでは「愛情求めさまよう」っていう受動的なものでしたが、最後は「愛を持って」と、自ら愛していくことを伝えています。

愛されるためには、まずは自ら愛せよ、というのは「嫌われる勇気」で有名な心理学者アルフレッド・アドラーも言っているところです。

この愛って、別に「対・人」に限らないと思います。自分が好きなもの、打ち込めるもの。そこに愛があるのならば恥ずかしがらずに、それが好きだって堂々と言おうよってことだと思います。

人の好みには本来、優劣はないはず。あるスポーツが好きな人は優れていて、違うスポーツが好きな人は劣っているのか。あるいは、スポーツが好きな人は優れていて、そうじゃない人は劣っているのか。そんなことはないはずです。

 

でも、そういう好みの差によって序列ができてしまうのが、学校という場なんですよね。いわゆるスクールカーストというやつです。

教育者としては、ここがすごく悩ましいところでもあるのです。そういうスクールカーストみたいなものは絶対なくなるべきだと思うんだけど、じゃあどうしたら無くなるのか考えるとその答えはなかなか出ない。それぞれの子供たちが、自分の個性を発揮できる環境になってほしいとは思うのだが…。

しかし、今後の社会は、そういう強い興味関心こそが活躍していく社会だと思います。であれば、学校としてもそういうある意味”普通ではない”個性を大事にしていかなければいけないのではないだろうか。でもそのためには…と考えると、考えは尽きませんね。その辺はまた今度、取り留めなく書いてみたいと思います。

 

 

うん、なんだか色々脱線してしまいました。

 

最後に、

中高生が「異端なスター」に描かれている状況に置かれていたしても、「異端なスター」が送るメッセージを受け取り実行に移すということはなかなか難しいことだと思います。そこがいつか必ず変わっていくということを信じて教育者は実践をしていくことは必要であるとして。

であるならば、せめて大学生、あるいは社会人は、自分が好きなものを好きだと言えるような人生を歩んでいく勇気を持つべきだと思っています。他者がどう言おうが関係ない、自分の好きなものをとことん追求していく道を歩むべきです。これは、自分にも言い聞かせています(割とそうしているけど)。

 

何か負の感情でつながっている関係は、どこかで信頼感が欠けているものだと思います。もしかして自分も、裏で悪く言われてるんじゃないかなっていう邪な気持ちが介入してくるからです。

それより、好きなものを突き詰めた先につながる関係の方が、きっと純粋に楽しい。それで満足ではないかと思います。

 

長くなってしまったから、ここまでたどり着いた人が何人いるか…読んでくれた方本当にありがとうございます。でも1人にでも、何かのメッセージが届いたらいいなと思います。

 

「異端なスター」以上でした!

自己満企画はとりあえずこれにて終了!次回は何を書きましょうかね。

 

それでは~。

 

【楽曲紹介】Official髭男dism×"教育"(第2弾)

自己満企画第2弾です。

テーマは引き続き、「Official髭男dism×"教育"」。

 

アクセス数を見る限り、やはりテーマのために見る人は限られてるな(ある程度髭男好きな人に)とは思うのですが、新たな楽曲の味方とか、あるいは楽曲からインスパイアされて考えたことなどを、たとえ1人にでも伝えられたらなと思うので続けます。

 

それに今日はちょっと読んでほしい!ヒゲダン、教育、より先の大事な話。

 

あと第2弾で終わるつもりだったのですが、第3弾まで続けます。

というのもですね、前回書きかけだった紹介があってそれを次に回そうと思っていたのですが、ちょっとタイムリーな話が世に流れてできるだけすぐ発信したいと思ったので、今日はいつもより短いと思いますが、1曲に絞ってお話します。

ちょっと今日は、マジメな感じなっているかもしれません…。

 

今日ご紹介したいのは、この楽曲です。

 

■What's Going On?

第1弾で紹介した『未完成なままで』が収録された作品集のタイトル作品です。

曲調やアレンジはタイトルのポップさ(?)の通りという感じなのですが、前半の歌詞の、あまりにもストレートな痛ましさには、正直最初「エっ…」と少し思ってしまいました。

ああ神様 どうして生きてく事はこんなに辛い事ことなんだろう?

感情がなくなってしまえば苦しくないのに

ねえどうして人は言葉で人を殺せるようになってしまったんだろう?

画面から飛び出した文字はナイフみたいだ

過去にもそうやって人生めちゃくちゃにされて

大切な仲間が一人命を絶ってしまった

 

いや、ちょっと、曲調とミスマッチすぎるくらい重すぎる。…と最初は思うんですが、それくらい深くえぐられるからこそ、後半の「エール」がとても響くんじゃないかと僕は思います。もちろんここまでのストレートな歌詞を使うことに賛否はあるでしょうが、少なくとも僕は、もうラスサビなんか感動ものです。

歌詞の内容から察するに、一人称は「エール」を送っている人物――おそらく、サビの「イヤフォン付けたら一人じゃないから」ってところから考えると、主語は「ヒゲダンかな?」と思うのですが、その相手は、いじめを受けている人だと思われます。それもSNS系の、ことばによる誹謗中傷。

TwitterとかLINEとかでのいじめや嫌がらせは、周りは簡単に見つけることができないうえに、被害者はそこから常に逃れることができません。かつてのいじめは、(もちろんこれも深刻でしたが)家に帰れば、あるいは別のコミュニティに行けば、少しは解放されていたかもしれません。しかし、どこにいても付きまとい、逃れられないのがSNSいじめの深刻であり恐ろしいところだと思います。

 

でも、それでもなんとか頑張ろう。生き抜こう。いつかはあいつらも飽きる。そうすれば、夜明けはくるさ。とヒゲダンは後半にメッセージを贈ります。そして僕が感動した後半の歌詞。

What's going on? 愛してるよ この手を掴んでよ

生き抜くことが反撃のビートだ 傷は消えないけど

What's going on? 愛してるよ 黒焦げた世界を

超えていこうよ 一緒に未来へ行こうよ

歌詞の内容に加えて、壮大な曲の展開の仕方と、藤原さんの熱い気持ちのこもった歌い方も相まって、本当に涙が出ますね。

辛い思いをしている時って、これが一生続くんじゃないかって思ってしまうけど、そんなことはほぼ絶対なくて、生きてさえいればどうにでもなれるし、これまで自分を見下してきたやつを見返してやることもできる(見返すことが良いこととは思わないけど。自分の人生を生きることが大事だから)。負った傷は消えないけど、それでも生きて、素敵な未来へ進もう、という熱いメッセージを受け取ることができると思います。

まだの方は、ぜひ聞いてみてください!

 

www.youtube.com

 

 

それで、これを今日中にと思ったのは、「木村 花」さんという若い女性の死のニュースが先ほど流れたためです。

正直僕は、最近のテラハは見ていないのでこの方も存じ上げなかったので、やはり、SNS等での誹謗中傷による(かもしれない)死というのは見過ごせないなと思ったのです。

"What's Going On?"に描かれているようなシーンが、現実に起きてしまったんだな…と。

僕も最近ツイッターをアクティベイトしたのですが、他の方のツイートを見ていると、個人攻撃のような投稿はいまだに巷にたくさん溢れているようで、それはとても胸が痛むしそもそも有害無益だなと思います。

彼女が番組内でどういうキャラクターだったのかとかは全く知らないのですが、それでも少なからず彼女のファンはいただろうし、テラハなどを中高校生などが見ていたとしたら、そこに出演していた人の死というのが与えるインパクトは小さくないと思うのです。一部だとしても、それで傷ついてしまう人がいたならば、そんなに悲しいことはありません。

 

政策や制度自体への批判や訴えというのは、一般民衆の声を政策決定者に届けるためにも有効だと思いますが、それが個人批判なっていたとしたら、それは間違っていると思います。でも、そこを混同したような投稿が、特にツイッターには多いように感じる。とても残念です。

コロナという人外の生物により世は殺伐とし、人は距離を取らざるを得なくなりました。それでも人は人とのつながりを求めるので、以前よりもおそらくメールやLINE、SNSという言葉のみによるコミュニケーションは増えているのではないかと思います。そういう今だからこそ、ことばの使い方をもう一度考えなきゃいけないと強く思っています。

ことばは平和のためにあるのであって、戦争のためのものではない。

 

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今日は少し硬く暗い話になってしまいました。

でも、理想と分かっていても、こういうことが起きなくなってほしいから、それに少なくとも、僕の周りにいる人には、そういうのに加担してほしくないから書きました。

 

そして、普段はそこまで意識していない曲でも、よく聞いてみると、すごく深いことを言っていたり、伝えたいメッセージがあるんだなっていうことにも気づいてもらいたいなと改めて思ったので、この楽曲紹介記事は続けたいと思います。

またそのうち、ヒゲダン以外ももちろんやりますので!

 

次回は僕の中で一番大好きなヒゲダンの曲の紹介をします。とても強く熱いメッセージ性を持った曲も紹介するので、ぜひまた読んでください。

 

 

それでは!